2009年11月7日土曜日

館越のメドツかトリかサルかキツネかナニカ…

 
館越のメドツ看板見物調査しているうちに
いつの間にか誘われ(いざなわれ)ていた鳥居。



森林の深いの中に対極的な深紅で聳え立つ
ニンゲンが作った神の印。

鳥居


「八戸」の内にいて注意深くあたりを見回すと、
ことのほか鳥居が多いことに気がつくだろう。

古来から漁村と農村と城下町が徐々に習合しつつ拡大し続けた街には
ソレらソレゾレの“神”を奉る場所もまたソレゾレに必要となり、
結果、街中に混在・同居していったのだろう。
ソレは概ね統合され都合の良い“万能神”を生み出してゆくのだが…

ま、とにかく鳥居は各所に多数点在しているのだ。


さすがにコレは鳥居あり過ぎ!(この写真は三八城神社です)


そもそも鳥居とは、
神社などの入り口を示す“門”として置かれ、
神の場所と俗世界(我々の世界)の境目の役割を果たしている。
人間界から神の領域へ「通り入る」門 ⇒「りい」から
とりい」である。(通入説)
…ダ、ダジャレ?! (O;)

また、
古事記によると、
天岩戸に隠れた天照大御神を出てこさせようと、
神々が「常世の長鳴き鳥」(ニワトリ)を鳴かせた折りに、
この鳥を止まらせるために用意した止まり木こそが、
鳥居の始まりとされている。
る処」⇒「鳥居」。
…ダ、ダイレクト?! (O;)

そー考えると蕪島神社の鳥居は、
おもいっきり鳥居であり、
ことさらに鳥居であり、
鳥居過ぎるくらいに鳥居なのである。




そんなこんなで、
車の往来激しい車道脇に、
ほとんど唐突にポッカリ開いた異界への入り口に足を踏み入れると…
ソコには薄暗い“山”へと続く急な階段が立ち上がっていた。
鳥居と同色で塗られた金属の手摺りが、
遙か「神の御座すであろう場所」を示すように伸びている。



さっきまで自分が居た街は
汗ばむくらいの陽気だったのに、
一歩、鳥居の内の森林に足を踏み入れただけで、
ヒンヤリするような妖気である。

たぶん気のせいだ。

あるいは樹林のフィトンチッド効果なのかも知れない。

まぁどっちにしても鳥居の内の森は、不気味なほど涼やかだったのだ。

階段の先の“目的地”までの中腹と思われる踊り場に
なにやら水場のような場所があった。



いったい誰が何をするところなのか?

ただの水場なのか? あるいは奉られているのか?

そこんところの端っこに、なにやら小さな置物が……

メ、メドツ!?

館越だけに、(メドツ看板も近いし)メドツでも奉っているというのか?



しかし、
置物はサルだった。

サルですよ猿。さる。さるさる。モンキー。エテ公。

結局、そーゆーことなのだ。
メドツ看板を見に来たついでに立ち寄った鳥居の中の水場に、
なんらかを象った置物があれば、
ソレは無意識の先入観からメドツに見えてしまうのである。

その「先入観」と、当時の情報過少による「無知」こそが大部分の妖怪の正体なのかもしれなくもない。

しかし、まてよ…
メドツって、川に棲むサルっぽいナニカではなかったっけか?

確かに冷静に考えてみると、
山から下りてきて川で水浴びしたビショ濡れの猿(二足歩行中)は、
体が子供みたいに小さく猿顔で体色は黒などのダーク系。
頭に皿が無い
」というメドツの目撃証言にあまりにも合致する。

やっぱり
サルですよ猿。さる。さるさる。モンキー。エテ公。

所詮はサル!

妖怪伝承に潜むミステリーなど、
所詮、現代の科学をまとい冷静な判断と沈着な物腰を身につけた捜査官にとって恐るるに足りぬ“常識”でしかないのだ。

そー思った瞬間、
さっきまでの「ヒンヤリ」感はスッキリ晴れ渡り、
足取りも軽く階段を駆け上っていた。

いやぁ、木陰が涼しくて気持ちが良ひなぁ。



そして目の前には“目的地”の最後の入り口と思われる真っ赤な鳥居が…



丁寧に一揖して鳥居を潜らせていただき、
祠に近づくと【館越稲荷社】とあった。



一般に「鳥居は赤いモノ」と思われがちだが、鳥居の赤は本来、稲荷神社を表す色だとされている。

そもそもこのは陰陽五行の「」を表す色らしい。

一方、農作物や保存食品を喰い荒らす憎っくきネズミや害虫を補食するキツネの生態は、農耕民族にとって大変アリガタいモノであり、また狐のキツネ色の体毛は農業の地盤である「」を連想させる色でもあった。

そこで、陰陽五行説くところの「火生土」(火が土を生む:いわゆる野焼き的なイメージ。また万物は火葬によって土に還る)にのっとり農耕に密接に関わるベストマッチングだと考えられ、稲荷神社にキツネが奉られるようになったのである。

そーなると、稲荷神社にキツネの好きそうな食べ物:油揚げ(当時としては最も動物性タンパク質っぽい食品。また油揚げ自体がキツネ色だった)などをお供えする人々が後を絶たなくなり、労せずとも美味しいモノが食べられるとあってキツネも益々集まって来て、境内はより強いキツネのテリトリーとなったのであろう。

そして堂々たるキツネがまた稲荷神社を更に神秘的に魅せた…という繰り返しの果てに日本中に拡散していったのではないか?

要するに稲荷神社とは元々農耕の神を奉る処であり、
農村の益獣のキツネは本人の知らないところで敬われたのである。
そして、
いつのまにか恵比寿神や弁財天同様、「富福」をもたらす万能神とその使いに作り替えられ、現代に至っている。

そんなこんなで稲荷神社は国内に数万社ほども分布する最大派閥神社となって、「鳥居=赤」のイメージを決定づけたワケなのだ。

ここ館越稲荷もそんな数万社の中のひとつである。

そして、八戸が誇る伝説のキツネ『藤五郎』が住処にしていた稲荷である。(あるいは、いまだに住んでいるのかもしれない)

藤五郎は他の野狐連中からも一目置かれるほど
化かしに長けたキツネだったらしい。

ちなみに、
特別な力をもったキツネは、
野良狐の野狐と、何者かに仕える善狐に分けられる。
人を化かしたり誑かしたりして悪さをはたらくのは主に野狐で、
益獣かつ善良な狐として人間に敬われるのが善狐である。
そして、善狐の中でも位が高く有名なのが稲荷神社の御先稲荷なのだ。

イタズラ藤五郎キツネは、その所業からみて野狐の部類だと思われるが、
稲荷神社に暮らしていたとすると善狐を目指していたのかもしれない。

良き者になろうと心がけても本能が悪さをしてしまう。

なんとニンゲン的なキツネであろうか?


ひょっとしたら館越のメドツとは
藤五郎キツネが作り出した幻影だったのではないか?

もしそうだったとしたら、
ソレは野狐のイタズラだったのか? 
ソレとも善狐として川の危険を知らしめるための警告を発していたのか?
 

2009年9月26日土曜日

館越のメドツ看板

 
きけんだ! よるな近づくな メドツが出るぞ 看板

コレは、地域団体が妖怪の存在と危険性を認めた上で注意を促した例として、とても興味深く、けっこー有名な看板である。
しかも昭和51年(1976)と妖怪の存在認知例としては比較的新しい部類であろう。

妖怪の名は「メドツ」。
メドツ(メドチ)とは、青森県各所の川に棲息する猿っぽいナニカで、
河童かソレに類する妖怪だと考えられている。

メドツ(メドチ)という言葉は、水神、蛇神、龍蛇神などの「水霊」を表す「」(みずち)が訛った語だとする説もあるが、伝承のメドチ達がことごとく悪さをして懲らしめられていることから、水の神である「蛟」よりも悪戯な「河童」に近い存在であり、河童と混同されているようだ。

おそらく、ワカラナイ事や手に負えないモノは全て神とか精霊とかで“まとめて”しまっていた昔の人々にとって、水棲の未確認生物は全部「水の霊」と考え、ひっくるめて「ミズチ」と呼び、訛ってメドチから更に訛ってメドツになったものだと思われる。

メドツの特徴は、
体が子供みたいに小さく猿顔で体色は黒などのダーク系。
頭に皿が無いことと、行動がシャレにならないような悪行三昧(人の命を奪うなど)であることなどから、いわゆるホノボノした民話に出てくるヤンチャな河童とは異なる存在だとも云われている。
八戸市内の櫛引八幡宮に伝わる有名な「メドツ伝説」には、メドツは『人を襲わないと餓死してしまう』とあることからも、やっぱり河童より凶暴な妖怪だと推測される。

青森県をはじめ日本各所には「水虎」という川の妖怪が悪さをした伝承が多く残っていて、ソレらによると河童が沢山の仕事(悪さ)をすると水虎に昇格し、48匹の河童を束ねる河童の大親分になるというのである。
元々「水虎」は中国の妖怪で日本には棲息していなかったのだけれど、「話」だけが日本に伝わり河童と混同されたか、或いはなんらかのルートで日本に入り込み棲み着いてしまった外来種妖怪なのか…? よくは解っていないのだが…。妖怪ですから。

もしもソノ伝承が“事実”であるならば、河童も悪行によって出世魚のようにグレードアップすることになり、

いたずらカッパ >> 人を襲うメドツ >> 悪の親玉:水虎

…という生物的変態も想像に難くない。

ひょっとしたら、ミズチ〔メドチ河童水虎〕 なのかもしれないのだ。

まぁソノ辺はテキトーなくくりだったんだろうけど。妖怪ですから。


で、この『メドツ看板』は、
意外にも交通量の多い道路脇に普通に立っていて、
田向バス邸から少しだけ歩いた所にあった。



地域住民からの聞き込み調査によると、
以前は、この看板は無かったのだという。

昔、この場所は沢と言うか小川と言うか、まぁそんな処だったらしく、
その頃には、子供達がよく遊んでいて、コレといった危険などは無かったのだそうだ。
ところが…
コンクリートの用水路が出来てからは突然危険な場所になってしまった。
それで、子供達に危険を促す目的で、昔話のメドツが“悪者”として担ぎ出されたと云うワケらしい。



確かに、こんな雑草に覆われた水路は危険きわまりない。

きっとメドツだってこんな所に棲みたいなんて思わないだろうけど…。

そう。
こんな自動車の往来の五月蠅い、
コンクリートに塗り固められた水路にメドツは棲まないのである。
棲むんだったら、もっと静かで水のキレイな場所だ。

冷静に考えたら、ここにメドツが居るワケがない。
…というか、メドツなんて理に叶わないモノは元々存在しないのかもしれない。

ここに水路の危険性を知らしめるためにメドツ伝説を利用した看板があるだけだ。

今では子供だってメドツを信じないし、
「メドツ」という言葉さえ知らない八戸市民も多いだろう。

ニンゲンは「科学」の名のもとに
日々、数々の伝説を暴き伝承を葬り神々を無力化している。
そして妖怪だって科学の犠牲者なのだ。

妖怪はオモシロかったり無意味なヤツばかりではなく、
中には恐ろしいのやらニンゲンに悪さをするヤツやらもいる。
しかしきっと、
メドツをはじめとする妖怪に危害を加えられたニンゲンの数より、
ニンゲンの科学に基づく“常識”によって抹殺された妖怪の方がよっぽど多いはずだ。

妖怪の実在を証明する術は無い。
反面、妖怪が存在しない確実な証拠だって、まだ無い。
だからこそ妖怪は我々に夢想や可笑しみやモラルや戒めを与えてくれたのではないか?
どっちにしたって確認できないからこそ“妖怪”だったのである。
その“確認”の範囲をジリジリと狭め続けるのが科学であり、
日々狭まる常識の隙間に細々と棲息する存在こそが妖怪なのだ。

じゃぁ、そーであるならばですヨ、
この看板がある限り、
ここにメドツが居ると信じたっていいんじゃないのか?

そのほうが断然愉しい。

メドツなんて今時ナンセンスかもしれないけれど、
絶対いないなんて証拠だって無いのだから。


きけんだ! よるな近づくな メドツが出るぞ」

いまどき子供だって信じない意味のない注意喚起看板は、
細々とメドツの存在を繋ぎ止める重要な看板であり、
地域住民の「粋」を伝える看板でもあるのだ。

だから、ここにメドツはいます。
館越メドツ看板
館越のメドツ(想像図)今回の報告書を仕上げる直前!
我々捜査班の元に、
メドツ目撃談が寄せられた!
情報提供者は現在アラ50の方で、
その方が、そのまたお婆ちゃんから聞いた話によると、
館越のメドツは、
背丈は小学1年生ぐらいで、
真っ赤な体で真っ黒のおかっぱ頭、
頭に皿は無かったのだそうです。
少なくとも、そぉ遠くない大昔に、
ホントにメドツはいました!
「見た」って言ってんだから、
間違いないでしょう。



この看板から、また少しだけ歩いた同じ道路沿いに
鬱蒼とした山中にいざなうような赤い鳥居があった。



どうやら館越稲荷社への入り口らしい。


館越稲荷といえば…
あの藤五郎キツネが住んでいた処ではないか!

あれ? なんで? メドツは?
既にキツネに化かされているのか?!
 

2009年9月20日日曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜天使と悪魔〜

 
…そんなこんなで
一般的な「八戸太郎物語」は“完結”した。…かのように思われているけれど…
実は八戸太郎の御話は「八戸の負の歴史」としてもう少しだけ続く。

その後、なんとあろうことか!
当時のエライ人達は沿岸漁民達の反対を押し切り鮫村恵比寿浜への捕鯨会社誘致を決めてしまったのである。
鮫村の漁民を鰯の大群に導き繁盛と安定をもたらした、あのヱビス様(鯨)を、こともあろうに、その恵比寿浜で捕鯨〜解体するというのだ!

なんと罰当たりな方向転換であろうか?

まさに「近代化が神を殺す」を、まんま体現したような出来事である。

そして実際に東洋捕鯨会社が操業を開始したことにより、
恵比寿浜は文字通り「血の海」と化した。

八戸で育った者ならば歴史の授業や誰かの御話で誰もが知っているであろう「海が鯨の血で真っ赤に染まった」という、あの“史実”である。

鯨は、肉は勿論、油を採るためにも、まことに割の良い重宝する“獲物”だったという。
前述の「漂着ヱビス」1頭で近隣村落が潤うというのだから、活きのいい鯨を片っ端から捕まえてバラしていったら、ソレこそ莫大な利益を産むのは必至である。
そんなワケで、規程の操業期間を過ぎた後も東洋捕鯨会社は捕鯨を止めようとはしなかった…。



恵比寿浜の海を一望できる西宮神社にて、
良き友人だったニンゲン達が仲間のクジラを狩る残虐な光景を見せつけられた八戸太郎は、いったいどんな気持ちになっただろうか?
仲間達の血で真っ赤に染まる恵比寿浜には、もう以前の、漁民達との温かな交流の記憶は微塵も残ってはいなかったであろう。
ソレどころか、恩を仇で返すようなニンゲンの行為に、怒りを覚えないハズはない。

親密だった分だけ、裏切られたショックは大きく恨みは深かっただろう。

八戸太郎が妖怪変化するには十分過ぎる銃爪である。

ソレはまるでジブリ映画『もののけ姫』の劇中で、
自然を守る主(獣神)がニンゲンの兇弾によってタタリガミに変異してしまう状況と同様の経緯だったのだ。

荒ぶる海獣の祟りを裏付けるように、
あんなに大漁を誇り全国的にも有数の鰯産地として知られた八戸の海から、鰯が消えていった。
ソレどころか他の魚介類も姿を消してゆき、漁業が成り立たなくなってしまった。
いきおい漁民達のストレスも、どんどん高まっていったワケだ。
そして遂に、明治44年(1911)11月1日には、歴史的大事件「東洋捕鯨鮫事業所焼討事件」にまで発展し、多くの損害を出したのである。

鯨によってもたらされた繁栄の分だけ、
鯨の血によって奪われた海産資源や失った“信頼”は膨大だった。




…その後、八戸太郎の恩恵を忘れ去った村人達は八戸太郎の怒りにふれましたとさ。どっとはらい

これからは、
この一連の“史実”までを八戸太郎伝承として後世に語り継ぐべきなのではないだろうか?




八戸太郎は、
たんなる鯨だったのか?
それとも海神様の使いだったのか?
あるいはホンモノの神になれたのか?
ニンゲンへの恨みによって妖怪になってしまったのか?
被害者だったのか加害者だったのか?
裏切りと復讐は、どっちが罪深いのか?
海を守るために傍若無人なニンゲンを祟る行為は、
はたして神の所業なのか悪魔の仕業なのか?
いったい海は誰のものなのか?

その答えは、
我々ニンゲンひとりひとりソレゾレの、
“自然”に対する思いや行為の中にこそアルのではナイか?

なにはともあれ、
今日の恵比寿浜は至極平穏に見える。




今回の1次調査の〆として、
八戸太郎さんと恵比寿様に敬意を表したくて、
ヱビスビールの空き缶に恵比寿浜の海水を汲んで、鯨石にかけて差し上げた。

「どーだい太郎さん? 近頃の恵比寿浜の水も、まんざら悪かぁないだろ?」

恵比寿浜の潮水に濡れた鯨石は、
心なしか円熟した鯨のように黒々艶やかに輝いて見えた。



—八戸太郎第1次調査補鯨おわり—

2009年9月13日日曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜神になりたかった鯨〜

  
八戸太郎という物語を解き明かすには、
西宮神社の石碑に記された箇条書きの鯨石物語では、
いささか不十分なようだ。



八戸太郎についての伝承の詳細はこうだ…

その昔、鮫浦の海は連日の大荒れが続き漁をすることが出来ませんでした。
このままでは、村人の生活がダメになってしまいます。
そんなある日、村の若い漁師が果敢にも大荒れの海に漁に出ました。
若者の乗った船はあっと言う間に波に飲み込まれてしまいました。
若者は海の神を呪いながら最後を覚悟しました。
そこに、大きな鯨が現れ若者を助けて、海岸へ連れ帰ってくれました。
村人たちは、その鯨に感謝して、親しみを込めて鮫浦太郎(八戸太郎)と呼びました。

それから毎年その鯨が鮫浦の海に現れると、イワシの大漁が続くようになり、鮫浦の漁師は、八戸太郎を神の使いとして崇めるようになりました。
八戸太郎のおかげで大層、鮫浦の村は潤ったそうです。

実は、この鯨は、海から毎年伊勢参りをしていて、その行為は仲間の鯨も認めるところで、神への仲間入りも認められていたようなのです。
そして、数十年の時が流れ、その年の夏も鮫浦の人々は、八戸太郎を心待ちにしておりました。
しかし、待てど暮らせど八戸太郎は現れません。

とろろが、ある朝、村人は大騒ぎです。
鮫浦の浜(現西ノ宮神社前)に、鯨が打ち上げられ息絶えているではありませんか!
鯨は八戸太郎でした。
体には何本ものモリが打ち込まれています。
そのうちの一本に、紀州 熊野浦と刻印がありました。
その年も、伊勢参りに行った八戸太郎は、不覚にも紀州の熊野浦の漁師にモリを打たれたに違いありません。
精一杯頑張って、鮫浦まで逃げてきたのでしょう。
鮫浦の人々は大いに悲しみました。
そして、八戸太郎は石になり、今でも西宮神社の前から海を見つめています。
現在、その石は、鯨石と言われています。


更に、興味深い“物語”が
八戸出身の高名な翻訳家:佐藤亮一氏の著書『鯨会社焼き打ち事件 みちのく漁民一揆の記録 明治四十四年八戸の<浜が泣いた日>』で語られている…(下記、原文まま)
鮫村の恵比寿浜東側の少し離れた海上に、日の出島という岩礁があり、このあたりに大昔から一頭の大鯨が棲息していた。
沿岸のイワシが不漁ときは、この鯨の主「日の出のオナイジ」様は、はるばる海洋の沖まで回遊してイワシの大群を見つけては鮫浦まで追い込み、おかげで漁師達は大漁をしたという話である。

この鯨の主「オナイジ」は、毎年、はるばる、みちのくの南部藩から、和歌山県熊野の権現まで「位(くらい)」をもらいに出向き、その印として、1回ごとに何やらの小石を一つもらって(呑み込んで)帰ってきたものだという。

ある年のこと、伊勢の某という鯨取りの親方が不思議な夢を見た。

夢に一頭の大鯨が現れて言うには、
「俺は、南部のオナイジである。毎年一回、熊野に位をもらいに上ってくるが、今年は三十三年目だ。三十三回位をもらえばもう大願成就、俺も魚神になることになる。だから今年のあがりだけは見逃してくれ、代わりに俺は進んでお前たちに取られてやるから」と言ったという。

翌日その親方は、漁師達を率いていつものとおり沖に出たが、珍しく大きな一頭の大鯨を見つけて捕獲した。

あとで大鯨を捕った漁師達は、この大鯨の肉を食べたが、残らず急病で死んでしまったという。

以上は明治7年7月ごろ、鮫村二子石の久次郎屋の老父が伊勢参りをしたときに、泊まった旅館の番頭が久次郎屋の老父が南部藩の人間だと聞いて話してくれたそうだ。
(以上原文抜粋引用—respect!—


コレらふたつの物語は、
子細こそ異なるがほぼ同じ伝承に基づいていると思われる。

そして、コレらの伝承に語られる鯨は尽く「大鯨」なのである。

そんなこんななワケで、
今までの経緯も含め考察するに、八戸太郎は大鯨(マッコウクジラ)だったとするのが妥当な解釈であろう。



ソレでは「マッコウクジラ」と「鯨石」の大きさのギャップはどー説明付けるのか?

その答えも伊勢の旅館の番頭さんの話の中にある。
「オナイジは、毎年、和歌山県熊野の権現まで位をもらいに出向き、その印として1回ごとに何やらの小石をひとつ呑み込んで帰ってきたものだ」というくだりである。

神になるために32年間毎年伊勢参りをして、神から授かった小石を飲み込み、ソレが体内で御神石となってゆく。
そして、あとひとつ…というところで、ニンゲンの凶銛に討たれ、息絶えたのだ。

無念!!

その直後、pre神殺しの罰当たりなニンゲン達は、おそらく“呪いみたいなモノ”で残らず死に至らしめられたのであろう。

…というコトは、
八戸太郎は熊野で捕獲され、食べられ、恵比寿浜には帰って来ていないことになるのだが…?

ソコで「オナイジ」という妙な名前が鯨と石を繋ぐ重要なキーになるのである。

おそらく「オナイジ」とは「御内陣」が元となって付いた名前だったのではないか?

内陣】ないじん—ぢん
神社や寺院の内部で、神体または本尊を安置する最も奥の部分。内殿。
「大辞林 第二版」より


「八戸太郎」=「オナイジ」=「御内陣」だったとするならば、
八戸太郎という巨大なマッコウクジラは神体・本尊の“入れ物”に過ぎず、
実は32年間せっせと貯め込んだ「小石の固まり」こそが御神石であり、「神」の部分だったのではないか?
33個貯めた時に、小石塊は鯨体もろとも「神」になる…予定…だったのかもしれない。

神になったコトが無いので神のシステムはワカラナイけれど、
雰囲気なんかそーゆー感じぃ的なぁ?

したがって、
入れ物(鯨の肉体)を失いながらも恵比寿浜まで戻った御神石−1=32個分の石塊は完全な「神」じゃないから西宮神社の中に収められず、かといって無下に捨て置くワケにもいかず、鯨石として境内に残され、ソレなりに奉られたのではないだろうか?

鯨石は恵比寿浜に西宮神社が建つ前からソコにあったのだという。
恵比寿を奉る西宮神社は、鯨石のある場所を狙って建てられたのである。
しかも鯨石を撤去または移動することもなく、
かといって神社の中に神として納めることもなく…。




神様認定評議会に「神」と認められなかったにしても、
「鮫浦太郎」と呼び親んできた鮫浦の漁民達は
神と同様に手厚く奉り愛してきたのだ。



そんな鮫浦の漁民達と八戸太郎の蜜月の日々が
その後、歴史的な血の惨劇へと豹変してゆく…。



次回はいよいよ第一次八戸太郎調査補鯨最終回。
妖怪としての八戸太郎を考察する。

心して待て!!
 

2009年9月4日金曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜鯨としての八戸太郎〜

 
さて、鮫浦の漁民をことごとく“財”に導いた八戸太郎は、
実のところホントに「神」だった
のか?

純粋で良きヒトも邪悪な潜在的罪人もいる漁村全体を潤す行為は
はたして神の所業と言えるのか?

語られる八戸太郎物語の中で、まず冷静に注意深く読み解きたい一説は、
「太郎が現れると鰯の大漁が続く」というくだりである。
太郎が来たから、あるいは太郎が呼び寄せたから、鰯が増えたのか?
いや、鰯が沢山いる場所に太郎が捕食しに来ていただけなのではないか?

そこで八戸不思議捜査官は、
八戸に縁のあった鯨はいったいどーゆー鯨でどーゆー生態だったのか?
恵比寿浜を訪れていた鯨を特定するために八戸市立博物館に飛んだ!!

民俗展示室漁業ブースに展示されるクジラ絵を見てみよう。

 

左側がシロナガスクジラで右側がマッコウクジラだと思われる。

そして、さらに西宮神社の八戸太郎像に当てはめてみよう。



頭部の形状からマッコウクジラかソレに類するモノだと推測出来る。

マッコウクジラは有歯動物では世界最大であり、
史上最大の肉食動物とされている。
本能的に巨大なモノを恐れ敬うニンゲンが“神”と崇めるには十分な存在感なのだ。
しかし、
もしも本当に太郎がマッコウクジラだったとしたら…

鰯なんか食べないのだ。

マッコウクジラはイカが好物である。
食事の実に95%がイカ類とされている。
しかもダイオウイカまで食べる程“大物喰い”なのだ。
子供の頃に図鑑等で「クジラと巨大イカの戦い」を見た記憶がないだろうか? その図こそがマッコウクジラでありダイオウイカなのである。
マッコウクジラはチマチマ鰯を食べて満足してるタマではないのだ。
たまに食べる魚だって大きめなヤツがお好みなのである。

そのイカ大好きっ子のマッコウクジラがイカの水揚げ日本一となった八戸の海に毎年来ていたという伝説は、なかなか因縁深い。


八戸が誇るイカ釣り船の勇姿!

ちなみに、
イカは回遊魚介で、冬に九州近辺で産まれたイカが
夏に北上し秋に南下する習性から
北上するイカ群れを夏に漁し、
南下するイカ群れを秋に漁する八戸沖合いイカは
長い旅で鍛えられたイカ身としてマッタクもって旨いのである。
水揚げ日本一だけではなく、味も超逸品なのだ。
量、質、共に日本一!

いかグレート八戸!

太郎が毎年、鮫浦を訪れていたのは、そんなイカの旬である夏だった。
あながち偶然や根も葉もない作り話とも思えないのではないだろうか?



太郎が大好きなイカや太郎好みする大きな魚は、小魚を好んで食べる。
小魚といえば、鰯!(言い切り?!)
鰯は古くから八戸の漁業を支えてきた“主力産品”であり、
八戸産シメカス(鰯由来の肥料)は全国的に流通する程の高品質で、八戸は鰯超産地として名を馳せたのだった。

八戸太郎(鯨)と鮫浦と鰯。
どーやら『鯨ー鮫ー鰯』の魚偏トライアングルが朧気に見えてきたようだ。

ここまでくるとナンダカンダで
「太郎って普通にマッコウクジラなんじゃねぇ?」っぽいけれど…
しかし実は、どーもマッコウクジラと特定できない要素も残されている。
マッコウクジラならば小型の♀でも優に10mを越すのだが、
鯨石の大きさからすると、どー見ても小柄なミンククジラかスナメリやイルカの類なのである。
ちなみにミンククジラはコイワシクジラ(小鰯鯨)とも呼ばれている。

2008年宮城県沖の調査資料によると、
ニタリクジラ(髭クジラ)の確認数がもっとも多い。
このニタリクジラはイワシクジラの近種で
分離されるまでは、イワシクジラと同一視されていた。
主食はイカナゴ(メロウド)で、当然イワシなどの小魚全般も食べる。
またイワシクジラはカツオクジラとも呼ばれるように
よくカツオが付くクジラでもあるのだ。
カツオは、天敵(カジキマグロなど)から身を守るためにクジラに寄り添い、クジラは、小魚群を追うカツオのオコボレを頂くという共棲関係を維持しながら、夏にかけて三陸沖を北上するのである。

イワシの群れとカツオとクジラがグループで移動しているワケだから、デカくて見つけやすいクジラを追えば大抵イワシ類にありつけるという寸法だ。

要するに、八戸太郎は漁民達のごく平凡な“暮らしの知恵”みたいなものだったとも考えられるのである。



また、当時の漁民が毎年現れるクジラの個体差を正確に判別特定できたのかどーかも疑わしいところだ。

我々八戸不思議捜査官及び分析官が八戸太郎の科属種を特定できるかどーかも疑わしいところだ。…と言うかホトンド無理だ。

また、巨大なクジラが石化するほど体積を高めつつ縮小した場合、
そのサイズが何%までダウンするのか……
我々の頭脳では、まったくもってサッパリ甚だ全然とんとワカリマセン????

柄にも無くアレコレ思考を巡らしていたら、
頭蓋の中のコモドール64が案の定処理能力不足に陥りオーヴァーヒートして、耳からイヤな煙が立ちのぼってまいりました……


限界です


…と言うワケで、
ワカラナイ事は知らないフリをして、
いよいよ次回は八戸太郎の物語を読み解く!…予定。

言い伝えられた伝承の中にこそ、
「現実」と「迷信」を繋ぐミッシングリンクが隠されている…かもしれなくもない。

またまた、まて次回!
 

2009年8月27日木曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜神としての八戸太郎〜

 
八戸太郎を紐解くには“安置”された西宮神社と奉られる恵比寿様を知る必要があるのかもしれない。


西宮神社は「西宮えびす」とも呼ばれるように恵比寿様を奉る神社で、兵庫県西宮市の西宮神社が総本社である。
(1月に「福男選び」と称して男たちが境内を激走する行事をTVで見かける思うが、まさにアレが西宮総本社だ)
西宮神社は日本全国に約3500社程もあり、八戸太郎の西宮神社(鮫)もその中のひとつである。

奉られる恵比寿様は、それはそれはたいそう美味しいビールであり、ソレ以前に七福神のひとりとして知らぬ者のいない超メジャー神様である。
御存知の通り「福の神」として認知されているが、魚籠や鯛を抱えている姿から解る通り、本来は「漁業の神」なのだ。
大漁を招くことから「漁村に福を呼ぶ」とされ、次第に農民の「五穀豊穣」や商人の「商売繁盛」まで網羅する万能の福の神となったようだ。

そして…
その恵比寿様の使い、あるいは化身として漁民達に崇拝されていた生物こそが、鯨なのである。
実際に東北を含む日本各所では鯨を「えびす」と呼んでいた。
おそらくは鯨を追えば高い確率で魚の群れに辿り着けたことから、漁業の神の思し召しと考え、恵比寿様の使い、あるいは恵比寿様そのものと考えたのだろう。
また、現在でもたまに見られる、群れからはぐれて浜辺に漂着した鯨を「えびす」と呼んでいる地域もあった。傷ついた鯨が1頭揚がるだけで周辺村落が尽く潤うことから海神の恵みと考えたのである。
「恵比寿」は、「夷」・「戒」などとも表し、来訪神・漂着神などともいわれていて「外から恵みをもたらすモノ」の意味を含んでいるという。


ソレがどんな状態だったにしても、漁民にとって鯨 ≒ 恵比寿様だったのだ。


さて、
昔の鯨にはホントに“神の意志”が宿っていたのか?
恵比寿神の使い(預言者)として漁民を導いたのか?
鯨の生態に基づく論理的な結果としての大漁だったのか?
たんなる偶然だったのか?
今となっては知る由も無いけれど…
鯨が大漁に結びつく“道標”だったことは確かなようだ。
鯨が漁村に福をもたらす“神”のような存在だったことも確かだ。

よって、現時点では「八戸太郎 ≒ 神」である。

八戸太郎がたんなる鯨だったとしても、ソレは鮫浦の漁民にとって、まさに“神”あるいは“神の使い”の役割を果たしたのだから。


ちなみに、
西宮神社にほど近い蕪嶋神社で奉られる弁天様は「弁天」ではなく「弁天」と表され、「才」(文芸々術)よりも「財」を招く神と解釈され、漁村:鮫浦では大漁と航海の神様として奉られている。



また、蕪島で繁殖する海鳥ウミネコは魚群を知らせる“目印”だったことから、天然記念物になるずっと以前から弁財天の使いとして可愛がられ大切にされてきたようだ。
鮫町のこの狭い沿岸エリアには漁業の神様であり七福神の二人がまるで居並ぶに鎮座し、神の使いのウミネコは益々調子付いて活気づいているワケだ。
アリガタヤアリガタヤ…



ある意味、鮫(鮫浦)には漁業の“結界”がはられているのだ。

ただひとつ…えびす(鯨)の姿はマッタク見られなくなったが……。


鯨がまったく見られなくなった理由なら、我々人間は胸に手を当てて考えれば即座に解る。

しかし、八戸太郎という“神”は調べれば調べるほど深く暗い伝承の海の底に潜っていってしまうのである。



事実上の無宗教とされる日本人が強く信仰するのが、八百万の神々、いわゆる“自然”だ。
その時代ごとの科学では解明できない、あるいはコントロールできない、手に負えないモノや現象には尽く畏怖し“神の意志”が関わっていると考えたのである。
また、自分たちの生命及び生活を脅かす驚異を退治(亡く)した後で“神”として奉る都合の良い手法もトラディショナルなジャパンスタイルだ。

ならばナゼ?
人間がこしらえた“神”としての資質が十分な八戸太郎は、
本来、神あるいは本尊として奉られているはずの鯨石は、
神社の前に野ざらしのまま横たえられ放置され続けているのか?


次回は生物(鯨)としての太郎を検証する。
まて次回

2009年8月22日土曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】

サメのクジラの八戸太郎と言っても、
他所の地方の方々には、さっぱりチンプンカンプンであろう。

ここで説明せねばなるまい。

サメ(鮫)とは、軟骨魚綱板鰓亜綱に属する獰猛だったりそーでなかったりする魚ではなく、八戸市の端っこに位置する小さな港町「鮫」のことである。
八戸では古くからの漁師町である湊町・白銀・鮫町を総称して「橋向こう」と呼ぶ。
ここでいう「橋」とは湊町の柳橋であり、その橋を越えて(新井田川を越えて)沿岸部に入った途端に、住人の威勢は上がり一気に漁師及び五十集(いさば)の豪快な気質になるとされているのである。
そんな「橋向こう」にあって、鮫町の住人は比較的オットリしていてノン気なのが特徴だ。
また鮫町と言えばウミネコの大規模繁殖地:蕪島があることでも、全国的に有名である。


こういった↑のどかで牧歌的な漁業風景が今もみられる鮫町。


ようするに「鮫の鯨の八戸太郎」とは
「鮫町におわす八戸太郎という名前のクジラ」なのである。

八戸太郎は、古くは鮫浦太郎と呼ばれていたのだけれど、いまは「八戸」と改姓し公式にも「八戸太郎」と呼称するのが通例となっているようなので以下、八戸太郎とする。

さて、この八戸太郎さんを、はたして妖怪と呼んでしまっていいのか?
それとも海神なのか?
たんなる気のいいクジラなのか?

掛けて縺れた謎を解くべく、
八戸不思議捜査官(通称X-ファイル八戸と呼ばれているとかいないとか)は八戸太郎が“安置”されている西宮神社へ急行した!

ウミネコの執拗な爆撃を辛うじてかわしつつ蕪島エリアを抜け、
八戸市水産科学館マリエントを越え、
青森県立海洋学院の脇に、絵に描いたような畦道がある。
それを進み入ると、想像以上にこぢんまりとした西宮神社がある。



西宮神社と言えば、
恵比寿様の総本社である兵庫県の西宮神社が有名であろう。
そんなワケで、ここ鮫町の西宮神社にも、
しっかりと恵比寿様が奉られている。
しかもこの界隈は恵比寿浜と呼ばれているのである。
すぐそばの蕪嶋神社には弁財天が奉られ、
蕪島から見える「七福の岩」にはソレゾレ七福神が宿ると言わている。


そんなこんなで鮫駅前通りの花壇には七福神が立ち並ぶ始末だ。

ここまで七福神が“濃い”地域も珍しいのではないだろうか?
このへんも八戸の不思議として、今後の捜査対象になりそうである。
なんにしても、
この界隈は、なにかとオメデタイ土地柄なのかもしれない。

愛鯨家でヱビスビール愛飲家で、鮫で生まれ育ったオメデタイ性格の捜査官には堪えられない場所なのだ。




西宮神社の入り口に設置された石碑にはこう記されている…

鯨石
昔鮫の沖に、毎年姿を現す鯨がおりました。
その時は浜で鰯の大漁が續きましたので「八戸太郎」と名付けられ海の神様のお使いとして崇められていました。
その鯨が熊野灘で銛を打たれ、ようやく鮫の海岸にたどり付き、息絶えて、そのまま石になったと語りつたえられています。それが神社の前に横たわる鯨石です。

そーなのだ。
八戸太郎は“石”になって、
いままさにココ↓にいるのである。


ココから絶えず鮫浦を、そして大海を見続けているのである。

この海を見守っているのか?
ニンゲンに汚された海を憂えているのか?

石になった八戸太郎よ、なに思う?


↑太郎目線で海を臨む!
手前の岩の下にある朽ちた人形がとても怖かった…メソメソ


次回は八戸不思議分析官の協力を得て、
いよいよ八戸太郎の謎に迫る。

まて次回


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2009年8月17日月曜日

十王院前坂の【てん転ばし】

八戸不思議散策の記念すべき第一弾として、
十王院前の坂道に出没するという「テンコロバシ」にターゲットを絞った!
ナゼなら、
自宅から近いからだ。

そんなこんなで湊町の十王院。


ここ十王院には、
湊町出身の僧、津要玄梁(しんようげんりょう1680〜1745)作の地蔵菩薩像(市文化財指定)が安置されている。
玄梁は石仏彫刻をはじめ絵画や詩文、和歌などに長けた“芸術家肌”の僧だったらしく、この地蔵菩薩像の内部にも玄梁自身の墨書が収められている、らしい。
また津要玄梁は階上の寺下観音住職として、五重塔や灯明堂を建てたことでも有名である、らしい。

で、
テンコロバシは、そんな由緒ある十王院前の坂道を発光しながら上下に転がっているという妖怪なのである。
発現は主に雨模様の夜に集中するという。

“十王院前の坂道”というと、陸奥湊駅前通りからグレットタワーへ向かう坂道を思い浮かべてしまいがちなのだけれど、おそらくは(十王院墓地を抜けて)もう1本十王院側に入った、昼でも薄暗い急な路地坂の方が出現場所だと推測される。
ナゼなら、
車道で不用意に転がっていたとしたら…
クルマに轢かれるのがオチだからだ。


テンコロバシの調査なのに真夏の晴天真っ昼間に来ています。
ナゼなら、
テンコロバシが出そうな雨の夜にこんな所に1人で来たら…
何にも無くても確実に怖いに決まってるからだ。

あぁいいともさ、
チキン野郎とでも何とでも呼ぶがいいさ!


さて、
このテンコロバシがナゼに坂道を上り下りしているのかというと、どうやら通りかかったニンゲンの脚を引っかけて転ばすのが目的らしい。
だから「てん転ばし」。
しかし、転ばしたからといってソレ以上にどーこーするワケでもなく、
転んだらよし。
ソレ以上でもソレ以下でもない。
ただたんに他人を転ばしたいだけなのだ。
(ニンゲンにもこーゆー性悪なヤツは多々いる)

こーいった無意味な、あるいは意味不明な妖怪というヤツは日本中に数多く“棲息”しており、実は意味不明な妖怪の方が多いといってもいいくらいなのだ。
例えば、
寝ているヒトの枕をひっくり返す、だけ、の「反枕」(まくらかえし)
風呂の垢を舐める、だけ、の「垢嘗」(あかなめ)
小豆を洗っている、だけ、の「小豆洗い」(小豆とぎ)
…などがメジャーどころであろう。
(実は、ソレゾレに突っ込んで考察すると個々に恐ろしい妖怪なのだが、恐ろしいのは怖いのでここではオモシロ妖怪キャラとして扱っておく)

テンコロバシと同じで「転ばしてナンボ」の転ばし系妖怪は各地にイロイロ棲息しているようだ。

岡山県邑久郡には「てんころばし」という同名の妖怪がいるらしい。
岡山のテンコロバシは「テンコロ転ばし」とも呼ばれ、古来「砧」や「槌」をテンコロと呼んでいたことから、いにしえより伝わる「野槌」(野つ霊:野の精霊)に発祥しているものとも考えられている。
したがって、その姿は「槌」に似たモノであるらしい。

また福島県や山口県などにも「鑵子転ばし」(カンスコロバシ)という妖怪がいて、テンコロバシ同様のコロバシ属と思われる。
しかし「鑵子転ばし」は自分で自ら転がって来る実務タイプではなく、身を隠したまま鑵子や酒器・茶器などの“道具”を山中の崖の上から転がしてよこすという甚だコスい妖怪である。
同じ転ばし系であっても八戸や岡山のテンコロバシと若干スタイルを異にするようだ。

また、鳥取県に棲息する「ツチコロビ」や高知県の「タテクリカエシ」なども同属とされている。

なんにしても、ヒトを転ばして喜んでる迷惑な愉快犯的妖怪なのである。

でもチョット憎めない…というのが妖怪の“魅力”なのかもしれない。




で、この十王院前坂道、
御覧の通り、自転車ではキツイくらいの勾配と自動車も通れないくらい細い路地である。
コレが未舗装無街灯だった時代であれば…
雨で足場も悪く、夜は見通しもきかなかっただろう。
要するに、普通でも油断してると転びかねない坂道なのだ。

また、土葬された“人”から発生したリンが雨水と反応して発光する現象こそがヒトダマの正体だとする説が有力とされている。
であるならば、この十王院の墓地に面した急な坂道に発光する“物体”があったとしても、なんら不思議とするところではないだろう。

あるいは、漁火や船の航行を助ける沿岸の松明などが雨で乱反射し、十王院あたりまで届いたとも考えられなくもない。

と、いうワケで、
テンコロバシは、どーゆー形態にしろ「実在する」あるいは「実在した」という結論に達した。

テンコロバシ、います。

実際、夏休み浮かれした自転車中学生がこの坂で転んでました。

あ〜こわい。


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序:Modern Superstition.

八戸は不思議な街である。

いまだに“伝統”が現役でありながら高度に都市化されているのだ。

大袈裟なくらい海が広がり、
ソレにともなって河川が街のド真ん中を無遠慮に走り、
鬱蒼とした樹林が残り、深い濃霧に覆われ、
その上に何不自由無い近代都市が張り付いている。
そんな新産業都市の傍らでは古代の貴重な遺跡が続々と発掘されている。

トラディショナルとサイバー
「伝承迷信」と「産業科学」が違和感も無く融合しているのである。



こういう多彩な様式を合わせ持つ何でもアリアリの街には、
古来から“棲息”する非人非獣の未知生命体、
あるいは“存在”および“概念”が未だ居座り、
更には新たな都市伝説が産まれ得るのではないか?

市内に散らばる妖怪変化の伝承の多さはいったいどーだ?

十分に近代化された街に点在する多くの鳥居は何を意味するのだ?

そこで、
八戸に伝わる“不思議”の類を自由研究の課題として、
この街をなんとな〜く散策してみることにした。


要するに、暇なのだ。