2009年9月26日土曜日

館越のメドツ看板

 
きけんだ! よるな近づくな メドツが出るぞ 看板

コレは、地域団体が妖怪の存在と危険性を認めた上で注意を促した例として、とても興味深く、けっこー有名な看板である。
しかも昭和51年(1976)と妖怪の存在認知例としては比較的新しい部類であろう。

妖怪の名は「メドツ」。
メドツ(メドチ)とは、青森県各所の川に棲息する猿っぽいナニカで、
河童かソレに類する妖怪だと考えられている。

メドツ(メドチ)という言葉は、水神、蛇神、龍蛇神などの「水霊」を表す「」(みずち)が訛った語だとする説もあるが、伝承のメドチ達がことごとく悪さをして懲らしめられていることから、水の神である「蛟」よりも悪戯な「河童」に近い存在であり、河童と混同されているようだ。

おそらく、ワカラナイ事や手に負えないモノは全て神とか精霊とかで“まとめて”しまっていた昔の人々にとって、水棲の未確認生物は全部「水の霊」と考え、ひっくるめて「ミズチ」と呼び、訛ってメドチから更に訛ってメドツになったものだと思われる。

メドツの特徴は、
体が子供みたいに小さく猿顔で体色は黒などのダーク系。
頭に皿が無いことと、行動がシャレにならないような悪行三昧(人の命を奪うなど)であることなどから、いわゆるホノボノした民話に出てくるヤンチャな河童とは異なる存在だとも云われている。
八戸市内の櫛引八幡宮に伝わる有名な「メドツ伝説」には、メドツは『人を襲わないと餓死してしまう』とあることからも、やっぱり河童より凶暴な妖怪だと推測される。

青森県をはじめ日本各所には「水虎」という川の妖怪が悪さをした伝承が多く残っていて、ソレらによると河童が沢山の仕事(悪さ)をすると水虎に昇格し、48匹の河童を束ねる河童の大親分になるというのである。
元々「水虎」は中国の妖怪で日本には棲息していなかったのだけれど、「話」だけが日本に伝わり河童と混同されたか、或いはなんらかのルートで日本に入り込み棲み着いてしまった外来種妖怪なのか…? よくは解っていないのだが…。妖怪ですから。

もしもソノ伝承が“事実”であるならば、河童も悪行によって出世魚のようにグレードアップすることになり、

いたずらカッパ >> 人を襲うメドツ >> 悪の親玉:水虎

…という生物的変態も想像に難くない。

ひょっとしたら、ミズチ〔メドチ河童水虎〕 なのかもしれないのだ。

まぁソノ辺はテキトーなくくりだったんだろうけど。妖怪ですから。


で、この『メドツ看板』は、
意外にも交通量の多い道路脇に普通に立っていて、
田向バス邸から少しだけ歩いた所にあった。



地域住民からの聞き込み調査によると、
以前は、この看板は無かったのだという。

昔、この場所は沢と言うか小川と言うか、まぁそんな処だったらしく、
その頃には、子供達がよく遊んでいて、コレといった危険などは無かったのだそうだ。
ところが…
コンクリートの用水路が出来てからは突然危険な場所になってしまった。
それで、子供達に危険を促す目的で、昔話のメドツが“悪者”として担ぎ出されたと云うワケらしい。



確かに、こんな雑草に覆われた水路は危険きわまりない。

きっとメドツだってこんな所に棲みたいなんて思わないだろうけど…。

そう。
こんな自動車の往来の五月蠅い、
コンクリートに塗り固められた水路にメドツは棲まないのである。
棲むんだったら、もっと静かで水のキレイな場所だ。

冷静に考えたら、ここにメドツが居るワケがない。
…というか、メドツなんて理に叶わないモノは元々存在しないのかもしれない。

ここに水路の危険性を知らしめるためにメドツ伝説を利用した看板があるだけだ。

今では子供だってメドツを信じないし、
「メドツ」という言葉さえ知らない八戸市民も多いだろう。

ニンゲンは「科学」の名のもとに
日々、数々の伝説を暴き伝承を葬り神々を無力化している。
そして妖怪だって科学の犠牲者なのだ。

妖怪はオモシロかったり無意味なヤツばかりではなく、
中には恐ろしいのやらニンゲンに悪さをするヤツやらもいる。
しかしきっと、
メドツをはじめとする妖怪に危害を加えられたニンゲンの数より、
ニンゲンの科学に基づく“常識”によって抹殺された妖怪の方がよっぽど多いはずだ。

妖怪の実在を証明する術は無い。
反面、妖怪が存在しない確実な証拠だって、まだ無い。
だからこそ妖怪は我々に夢想や可笑しみやモラルや戒めを与えてくれたのではないか?
どっちにしたって確認できないからこそ“妖怪”だったのである。
その“確認”の範囲をジリジリと狭め続けるのが科学であり、
日々狭まる常識の隙間に細々と棲息する存在こそが妖怪なのだ。

じゃぁ、そーであるならばですヨ、
この看板がある限り、
ここにメドツが居ると信じたっていいんじゃないのか?

そのほうが断然愉しい。

メドツなんて今時ナンセンスかもしれないけれど、
絶対いないなんて証拠だって無いのだから。


きけんだ! よるな近づくな メドツが出るぞ」

いまどき子供だって信じない意味のない注意喚起看板は、
細々とメドツの存在を繋ぎ止める重要な看板であり、
地域住民の「粋」を伝える看板でもあるのだ。

だから、ここにメドツはいます。
館越メドツ看板
館越のメドツ(想像図)今回の報告書を仕上げる直前!
我々捜査班の元に、
メドツ目撃談が寄せられた!
情報提供者は現在アラ50の方で、
その方が、そのまたお婆ちゃんから聞いた話によると、
館越のメドツは、
背丈は小学1年生ぐらいで、
真っ赤な体で真っ黒のおかっぱ頭、
頭に皿は無かったのだそうです。
少なくとも、そぉ遠くない大昔に、
ホントにメドツはいました!
「見た」って言ってんだから、
間違いないでしょう。



この看板から、また少しだけ歩いた同じ道路沿いに
鬱蒼とした山中にいざなうような赤い鳥居があった。



どうやら館越稲荷社への入り口らしい。


館越稲荷といえば…
あの藤五郎キツネが住んでいた処ではないか!

あれ? なんで? メドツは?
既にキツネに化かされているのか?!
 

2009年9月20日日曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜天使と悪魔〜

 
…そんなこんなで
一般的な「八戸太郎物語」は“完結”した。…かのように思われているけれど…
実は八戸太郎の御話は「八戸の負の歴史」としてもう少しだけ続く。

その後、なんとあろうことか!
当時のエライ人達は沿岸漁民達の反対を押し切り鮫村恵比寿浜への捕鯨会社誘致を決めてしまったのである。
鮫村の漁民を鰯の大群に導き繁盛と安定をもたらした、あのヱビス様(鯨)を、こともあろうに、その恵比寿浜で捕鯨〜解体するというのだ!

なんと罰当たりな方向転換であろうか?

まさに「近代化が神を殺す」を、まんま体現したような出来事である。

そして実際に東洋捕鯨会社が操業を開始したことにより、
恵比寿浜は文字通り「血の海」と化した。

八戸で育った者ならば歴史の授業や誰かの御話で誰もが知っているであろう「海が鯨の血で真っ赤に染まった」という、あの“史実”である。

鯨は、肉は勿論、油を採るためにも、まことに割の良い重宝する“獲物”だったという。
前述の「漂着ヱビス」1頭で近隣村落が潤うというのだから、活きのいい鯨を片っ端から捕まえてバラしていったら、ソレこそ莫大な利益を産むのは必至である。
そんなワケで、規程の操業期間を過ぎた後も東洋捕鯨会社は捕鯨を止めようとはしなかった…。



恵比寿浜の海を一望できる西宮神社にて、
良き友人だったニンゲン達が仲間のクジラを狩る残虐な光景を見せつけられた八戸太郎は、いったいどんな気持ちになっただろうか?
仲間達の血で真っ赤に染まる恵比寿浜には、もう以前の、漁民達との温かな交流の記憶は微塵も残ってはいなかったであろう。
ソレどころか、恩を仇で返すようなニンゲンの行為に、怒りを覚えないハズはない。

親密だった分だけ、裏切られたショックは大きく恨みは深かっただろう。

八戸太郎が妖怪変化するには十分過ぎる銃爪である。

ソレはまるでジブリ映画『もののけ姫』の劇中で、
自然を守る主(獣神)がニンゲンの兇弾によってタタリガミに変異してしまう状況と同様の経緯だったのだ。

荒ぶる海獣の祟りを裏付けるように、
あんなに大漁を誇り全国的にも有数の鰯産地として知られた八戸の海から、鰯が消えていった。
ソレどころか他の魚介類も姿を消してゆき、漁業が成り立たなくなってしまった。
いきおい漁民達のストレスも、どんどん高まっていったワケだ。
そして遂に、明治44年(1911)11月1日には、歴史的大事件「東洋捕鯨鮫事業所焼討事件」にまで発展し、多くの損害を出したのである。

鯨によってもたらされた繁栄の分だけ、
鯨の血によって奪われた海産資源や失った“信頼”は膨大だった。




…その後、八戸太郎の恩恵を忘れ去った村人達は八戸太郎の怒りにふれましたとさ。どっとはらい

これからは、
この一連の“史実”までを八戸太郎伝承として後世に語り継ぐべきなのではないだろうか?




八戸太郎は、
たんなる鯨だったのか?
それとも海神様の使いだったのか?
あるいはホンモノの神になれたのか?
ニンゲンへの恨みによって妖怪になってしまったのか?
被害者だったのか加害者だったのか?
裏切りと復讐は、どっちが罪深いのか?
海を守るために傍若無人なニンゲンを祟る行為は、
はたして神の所業なのか悪魔の仕業なのか?
いったい海は誰のものなのか?

その答えは、
我々ニンゲンひとりひとりソレゾレの、
“自然”に対する思いや行為の中にこそアルのではナイか?

なにはともあれ、
今日の恵比寿浜は至極平穏に見える。




今回の1次調査の〆として、
八戸太郎さんと恵比寿様に敬意を表したくて、
ヱビスビールの空き缶に恵比寿浜の海水を汲んで、鯨石にかけて差し上げた。

「どーだい太郎さん? 近頃の恵比寿浜の水も、まんざら悪かぁないだろ?」

恵比寿浜の潮水に濡れた鯨石は、
心なしか円熟した鯨のように黒々艶やかに輝いて見えた。



—八戸太郎第1次調査補鯨おわり—

2009年9月13日日曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜神になりたかった鯨〜

  
八戸太郎という物語を解き明かすには、
西宮神社の石碑に記された箇条書きの鯨石物語では、
いささか不十分なようだ。



八戸太郎についての伝承の詳細はこうだ…

その昔、鮫浦の海は連日の大荒れが続き漁をすることが出来ませんでした。
このままでは、村人の生活がダメになってしまいます。
そんなある日、村の若い漁師が果敢にも大荒れの海に漁に出ました。
若者の乗った船はあっと言う間に波に飲み込まれてしまいました。
若者は海の神を呪いながら最後を覚悟しました。
そこに、大きな鯨が現れ若者を助けて、海岸へ連れ帰ってくれました。
村人たちは、その鯨に感謝して、親しみを込めて鮫浦太郎(八戸太郎)と呼びました。

それから毎年その鯨が鮫浦の海に現れると、イワシの大漁が続くようになり、鮫浦の漁師は、八戸太郎を神の使いとして崇めるようになりました。
八戸太郎のおかげで大層、鮫浦の村は潤ったそうです。

実は、この鯨は、海から毎年伊勢参りをしていて、その行為は仲間の鯨も認めるところで、神への仲間入りも認められていたようなのです。
そして、数十年の時が流れ、その年の夏も鮫浦の人々は、八戸太郎を心待ちにしておりました。
しかし、待てど暮らせど八戸太郎は現れません。

とろろが、ある朝、村人は大騒ぎです。
鮫浦の浜(現西ノ宮神社前)に、鯨が打ち上げられ息絶えているではありませんか!
鯨は八戸太郎でした。
体には何本ものモリが打ち込まれています。
そのうちの一本に、紀州 熊野浦と刻印がありました。
その年も、伊勢参りに行った八戸太郎は、不覚にも紀州の熊野浦の漁師にモリを打たれたに違いありません。
精一杯頑張って、鮫浦まで逃げてきたのでしょう。
鮫浦の人々は大いに悲しみました。
そして、八戸太郎は石になり、今でも西宮神社の前から海を見つめています。
現在、その石は、鯨石と言われています。


更に、興味深い“物語”が
八戸出身の高名な翻訳家:佐藤亮一氏の著書『鯨会社焼き打ち事件 みちのく漁民一揆の記録 明治四十四年八戸の<浜が泣いた日>』で語られている…(下記、原文まま)
鮫村の恵比寿浜東側の少し離れた海上に、日の出島という岩礁があり、このあたりに大昔から一頭の大鯨が棲息していた。
沿岸のイワシが不漁ときは、この鯨の主「日の出のオナイジ」様は、はるばる海洋の沖まで回遊してイワシの大群を見つけては鮫浦まで追い込み、おかげで漁師達は大漁をしたという話である。

この鯨の主「オナイジ」は、毎年、はるばる、みちのくの南部藩から、和歌山県熊野の権現まで「位(くらい)」をもらいに出向き、その印として、1回ごとに何やらの小石を一つもらって(呑み込んで)帰ってきたものだという。

ある年のこと、伊勢の某という鯨取りの親方が不思議な夢を見た。

夢に一頭の大鯨が現れて言うには、
「俺は、南部のオナイジである。毎年一回、熊野に位をもらいに上ってくるが、今年は三十三年目だ。三十三回位をもらえばもう大願成就、俺も魚神になることになる。だから今年のあがりだけは見逃してくれ、代わりに俺は進んでお前たちに取られてやるから」と言ったという。

翌日その親方は、漁師達を率いていつものとおり沖に出たが、珍しく大きな一頭の大鯨を見つけて捕獲した。

あとで大鯨を捕った漁師達は、この大鯨の肉を食べたが、残らず急病で死んでしまったという。

以上は明治7年7月ごろ、鮫村二子石の久次郎屋の老父が伊勢参りをしたときに、泊まった旅館の番頭が久次郎屋の老父が南部藩の人間だと聞いて話してくれたそうだ。
(以上原文抜粋引用—respect!—


コレらふたつの物語は、
子細こそ異なるがほぼ同じ伝承に基づいていると思われる。

そして、コレらの伝承に語られる鯨は尽く「大鯨」なのである。

そんなこんななワケで、
今までの経緯も含め考察するに、八戸太郎は大鯨(マッコウクジラ)だったとするのが妥当な解釈であろう。



ソレでは「マッコウクジラ」と「鯨石」の大きさのギャップはどー説明付けるのか?

その答えも伊勢の旅館の番頭さんの話の中にある。
「オナイジは、毎年、和歌山県熊野の権現まで位をもらいに出向き、その印として1回ごとに何やらの小石をひとつ呑み込んで帰ってきたものだ」というくだりである。

神になるために32年間毎年伊勢参りをして、神から授かった小石を飲み込み、ソレが体内で御神石となってゆく。
そして、あとひとつ…というところで、ニンゲンの凶銛に討たれ、息絶えたのだ。

無念!!

その直後、pre神殺しの罰当たりなニンゲン達は、おそらく“呪いみたいなモノ”で残らず死に至らしめられたのであろう。

…というコトは、
八戸太郎は熊野で捕獲され、食べられ、恵比寿浜には帰って来ていないことになるのだが…?

ソコで「オナイジ」という妙な名前が鯨と石を繋ぐ重要なキーになるのである。

おそらく「オナイジ」とは「御内陣」が元となって付いた名前だったのではないか?

内陣】ないじん—ぢん
神社や寺院の内部で、神体または本尊を安置する最も奥の部分。内殿。
「大辞林 第二版」より


「八戸太郎」=「オナイジ」=「御内陣」だったとするならば、
八戸太郎という巨大なマッコウクジラは神体・本尊の“入れ物”に過ぎず、
実は32年間せっせと貯め込んだ「小石の固まり」こそが御神石であり、「神」の部分だったのではないか?
33個貯めた時に、小石塊は鯨体もろとも「神」になる…予定…だったのかもしれない。

神になったコトが無いので神のシステムはワカラナイけれど、
雰囲気なんかそーゆー感じぃ的なぁ?

したがって、
入れ物(鯨の肉体)を失いながらも恵比寿浜まで戻った御神石−1=32個分の石塊は完全な「神」じゃないから西宮神社の中に収められず、かといって無下に捨て置くワケにもいかず、鯨石として境内に残され、ソレなりに奉られたのではないだろうか?

鯨石は恵比寿浜に西宮神社が建つ前からソコにあったのだという。
恵比寿を奉る西宮神社は、鯨石のある場所を狙って建てられたのである。
しかも鯨石を撤去または移動することもなく、
かといって神社の中に神として納めることもなく…。




神様認定評議会に「神」と認められなかったにしても、
「鮫浦太郎」と呼び親んできた鮫浦の漁民達は
神と同様に手厚く奉り愛してきたのだ。



そんな鮫浦の漁民達と八戸太郎の蜜月の日々が
その後、歴史的な血の惨劇へと豹変してゆく…。



次回はいよいよ第一次八戸太郎調査補鯨最終回。
妖怪としての八戸太郎を考察する。

心して待て!!
 

2009年9月4日金曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜鯨としての八戸太郎〜

 
さて、鮫浦の漁民をことごとく“財”に導いた八戸太郎は、
実のところホントに「神」だった
のか?

純粋で良きヒトも邪悪な潜在的罪人もいる漁村全体を潤す行為は
はたして神の所業と言えるのか?

語られる八戸太郎物語の中で、まず冷静に注意深く読み解きたい一説は、
「太郎が現れると鰯の大漁が続く」というくだりである。
太郎が来たから、あるいは太郎が呼び寄せたから、鰯が増えたのか?
いや、鰯が沢山いる場所に太郎が捕食しに来ていただけなのではないか?

そこで八戸不思議捜査官は、
八戸に縁のあった鯨はいったいどーゆー鯨でどーゆー生態だったのか?
恵比寿浜を訪れていた鯨を特定するために八戸市立博物館に飛んだ!!

民俗展示室漁業ブースに展示されるクジラ絵を見てみよう。

 

左側がシロナガスクジラで右側がマッコウクジラだと思われる。

そして、さらに西宮神社の八戸太郎像に当てはめてみよう。



頭部の形状からマッコウクジラかソレに類するモノだと推測出来る。

マッコウクジラは有歯動物では世界最大であり、
史上最大の肉食動物とされている。
本能的に巨大なモノを恐れ敬うニンゲンが“神”と崇めるには十分な存在感なのだ。
しかし、
もしも本当に太郎がマッコウクジラだったとしたら…

鰯なんか食べないのだ。

マッコウクジラはイカが好物である。
食事の実に95%がイカ類とされている。
しかもダイオウイカまで食べる程“大物喰い”なのだ。
子供の頃に図鑑等で「クジラと巨大イカの戦い」を見た記憶がないだろうか? その図こそがマッコウクジラでありダイオウイカなのである。
マッコウクジラはチマチマ鰯を食べて満足してるタマではないのだ。
たまに食べる魚だって大きめなヤツがお好みなのである。

そのイカ大好きっ子のマッコウクジラがイカの水揚げ日本一となった八戸の海に毎年来ていたという伝説は、なかなか因縁深い。


八戸が誇るイカ釣り船の勇姿!

ちなみに、
イカは回遊魚介で、冬に九州近辺で産まれたイカが
夏に北上し秋に南下する習性から
北上するイカ群れを夏に漁し、
南下するイカ群れを秋に漁する八戸沖合いイカは
長い旅で鍛えられたイカ身としてマッタクもって旨いのである。
水揚げ日本一だけではなく、味も超逸品なのだ。
量、質、共に日本一!

いかグレート八戸!

太郎が毎年、鮫浦を訪れていたのは、そんなイカの旬である夏だった。
あながち偶然や根も葉もない作り話とも思えないのではないだろうか?



太郎が大好きなイカや太郎好みする大きな魚は、小魚を好んで食べる。
小魚といえば、鰯!(言い切り?!)
鰯は古くから八戸の漁業を支えてきた“主力産品”であり、
八戸産シメカス(鰯由来の肥料)は全国的に流通する程の高品質で、八戸は鰯超産地として名を馳せたのだった。

八戸太郎(鯨)と鮫浦と鰯。
どーやら『鯨ー鮫ー鰯』の魚偏トライアングルが朧気に見えてきたようだ。

ここまでくるとナンダカンダで
「太郎って普通にマッコウクジラなんじゃねぇ?」っぽいけれど…
しかし実は、どーもマッコウクジラと特定できない要素も残されている。
マッコウクジラならば小型の♀でも優に10mを越すのだが、
鯨石の大きさからすると、どー見ても小柄なミンククジラかスナメリやイルカの類なのである。
ちなみにミンククジラはコイワシクジラ(小鰯鯨)とも呼ばれている。

2008年宮城県沖の調査資料によると、
ニタリクジラ(髭クジラ)の確認数がもっとも多い。
このニタリクジラはイワシクジラの近種で
分離されるまでは、イワシクジラと同一視されていた。
主食はイカナゴ(メロウド)で、当然イワシなどの小魚全般も食べる。
またイワシクジラはカツオクジラとも呼ばれるように
よくカツオが付くクジラでもあるのだ。
カツオは、天敵(カジキマグロなど)から身を守るためにクジラに寄り添い、クジラは、小魚群を追うカツオのオコボレを頂くという共棲関係を維持しながら、夏にかけて三陸沖を北上するのである。

イワシの群れとカツオとクジラがグループで移動しているワケだから、デカくて見つけやすいクジラを追えば大抵イワシ類にありつけるという寸法だ。

要するに、八戸太郎は漁民達のごく平凡な“暮らしの知恵”みたいなものだったとも考えられるのである。



また、当時の漁民が毎年現れるクジラの個体差を正確に判別特定できたのかどーかも疑わしいところだ。

我々八戸不思議捜査官及び分析官が八戸太郎の科属種を特定できるかどーかも疑わしいところだ。…と言うかホトンド無理だ。

また、巨大なクジラが石化するほど体積を高めつつ縮小した場合、
そのサイズが何%までダウンするのか……
我々の頭脳では、まったくもってサッパリ甚だ全然とんとワカリマセン????

柄にも無くアレコレ思考を巡らしていたら、
頭蓋の中のコモドール64が案の定処理能力不足に陥りオーヴァーヒートして、耳からイヤな煙が立ちのぼってまいりました……


限界です


…と言うワケで、
ワカラナイ事は知らないフリをして、
いよいよ次回は八戸太郎の物語を読み解く!…予定。

言い伝えられた伝承の中にこそ、
「現実」と「迷信」を繋ぐミッシングリンクが隠されている…かもしれなくもない。

またまた、まて次回!