2009年9月13日日曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜神になりたかった鯨〜

  
八戸太郎という物語を解き明かすには、
西宮神社の石碑に記された箇条書きの鯨石物語では、
いささか不十分なようだ。



八戸太郎についての伝承の詳細はこうだ…

その昔、鮫浦の海は連日の大荒れが続き漁をすることが出来ませんでした。
このままでは、村人の生活がダメになってしまいます。
そんなある日、村の若い漁師が果敢にも大荒れの海に漁に出ました。
若者の乗った船はあっと言う間に波に飲み込まれてしまいました。
若者は海の神を呪いながら最後を覚悟しました。
そこに、大きな鯨が現れ若者を助けて、海岸へ連れ帰ってくれました。
村人たちは、その鯨に感謝して、親しみを込めて鮫浦太郎(八戸太郎)と呼びました。

それから毎年その鯨が鮫浦の海に現れると、イワシの大漁が続くようになり、鮫浦の漁師は、八戸太郎を神の使いとして崇めるようになりました。
八戸太郎のおかげで大層、鮫浦の村は潤ったそうです。

実は、この鯨は、海から毎年伊勢参りをしていて、その行為は仲間の鯨も認めるところで、神への仲間入りも認められていたようなのです。
そして、数十年の時が流れ、その年の夏も鮫浦の人々は、八戸太郎を心待ちにしておりました。
しかし、待てど暮らせど八戸太郎は現れません。

とろろが、ある朝、村人は大騒ぎです。
鮫浦の浜(現西ノ宮神社前)に、鯨が打ち上げられ息絶えているではありませんか!
鯨は八戸太郎でした。
体には何本ものモリが打ち込まれています。
そのうちの一本に、紀州 熊野浦と刻印がありました。
その年も、伊勢参りに行った八戸太郎は、不覚にも紀州の熊野浦の漁師にモリを打たれたに違いありません。
精一杯頑張って、鮫浦まで逃げてきたのでしょう。
鮫浦の人々は大いに悲しみました。
そして、八戸太郎は石になり、今でも西宮神社の前から海を見つめています。
現在、その石は、鯨石と言われています。


更に、興味深い“物語”が
八戸出身の高名な翻訳家:佐藤亮一氏の著書『鯨会社焼き打ち事件 みちのく漁民一揆の記録 明治四十四年八戸の<浜が泣いた日>』で語られている…(下記、原文まま)
鮫村の恵比寿浜東側の少し離れた海上に、日の出島という岩礁があり、このあたりに大昔から一頭の大鯨が棲息していた。
沿岸のイワシが不漁ときは、この鯨の主「日の出のオナイジ」様は、はるばる海洋の沖まで回遊してイワシの大群を見つけては鮫浦まで追い込み、おかげで漁師達は大漁をしたという話である。

この鯨の主「オナイジ」は、毎年、はるばる、みちのくの南部藩から、和歌山県熊野の権現まで「位(くらい)」をもらいに出向き、その印として、1回ごとに何やらの小石を一つもらって(呑み込んで)帰ってきたものだという。

ある年のこと、伊勢の某という鯨取りの親方が不思議な夢を見た。

夢に一頭の大鯨が現れて言うには、
「俺は、南部のオナイジである。毎年一回、熊野に位をもらいに上ってくるが、今年は三十三年目だ。三十三回位をもらえばもう大願成就、俺も魚神になることになる。だから今年のあがりだけは見逃してくれ、代わりに俺は進んでお前たちに取られてやるから」と言ったという。

翌日その親方は、漁師達を率いていつものとおり沖に出たが、珍しく大きな一頭の大鯨を見つけて捕獲した。

あとで大鯨を捕った漁師達は、この大鯨の肉を食べたが、残らず急病で死んでしまったという。

以上は明治7年7月ごろ、鮫村二子石の久次郎屋の老父が伊勢参りをしたときに、泊まった旅館の番頭が久次郎屋の老父が南部藩の人間だと聞いて話してくれたそうだ。
(以上原文抜粋引用—respect!—


コレらふたつの物語は、
子細こそ異なるがほぼ同じ伝承に基づいていると思われる。

そして、コレらの伝承に語られる鯨は尽く「大鯨」なのである。

そんなこんななワケで、
今までの経緯も含め考察するに、八戸太郎は大鯨(マッコウクジラ)だったとするのが妥当な解釈であろう。



ソレでは「マッコウクジラ」と「鯨石」の大きさのギャップはどー説明付けるのか?

その答えも伊勢の旅館の番頭さんの話の中にある。
「オナイジは、毎年、和歌山県熊野の権現まで位をもらいに出向き、その印として1回ごとに何やらの小石をひとつ呑み込んで帰ってきたものだ」というくだりである。

神になるために32年間毎年伊勢参りをして、神から授かった小石を飲み込み、ソレが体内で御神石となってゆく。
そして、あとひとつ…というところで、ニンゲンの凶銛に討たれ、息絶えたのだ。

無念!!

その直後、pre神殺しの罰当たりなニンゲン達は、おそらく“呪いみたいなモノ”で残らず死に至らしめられたのであろう。

…というコトは、
八戸太郎は熊野で捕獲され、食べられ、恵比寿浜には帰って来ていないことになるのだが…?

ソコで「オナイジ」という妙な名前が鯨と石を繋ぐ重要なキーになるのである。

おそらく「オナイジ」とは「御内陣」が元となって付いた名前だったのではないか?

内陣】ないじん—ぢん
神社や寺院の内部で、神体または本尊を安置する最も奥の部分。内殿。
「大辞林 第二版」より


「八戸太郎」=「オナイジ」=「御内陣」だったとするならば、
八戸太郎という巨大なマッコウクジラは神体・本尊の“入れ物”に過ぎず、
実は32年間せっせと貯め込んだ「小石の固まり」こそが御神石であり、「神」の部分だったのではないか?
33個貯めた時に、小石塊は鯨体もろとも「神」になる…予定…だったのかもしれない。

神になったコトが無いので神のシステムはワカラナイけれど、
雰囲気なんかそーゆー感じぃ的なぁ?

したがって、
入れ物(鯨の肉体)を失いながらも恵比寿浜まで戻った御神石−1=32個分の石塊は完全な「神」じゃないから西宮神社の中に収められず、かといって無下に捨て置くワケにもいかず、鯨石として境内に残され、ソレなりに奉られたのではないだろうか?

鯨石は恵比寿浜に西宮神社が建つ前からソコにあったのだという。
恵比寿を奉る西宮神社は、鯨石のある場所を狙って建てられたのである。
しかも鯨石を撤去または移動することもなく、
かといって神社の中に神として納めることもなく…。




神様認定評議会に「神」と認められなかったにしても、
「鮫浦太郎」と呼び親んできた鮫浦の漁民達は
神と同様に手厚く奉り愛してきたのだ。



そんな鮫浦の漁民達と八戸太郎の蜜月の日々が
その後、歴史的な血の惨劇へと豹変してゆく…。



次回はいよいよ第一次八戸太郎調査補鯨最終回。
妖怪としての八戸太郎を考察する。

心して待て!!
 

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