2010年7月19日月曜日

サイカチの木と美女と赤手児

 
数々の重要文化財や国宝を擁する櫛引八幡宮の境内にある「明治記念館」は、1882年に旧八戸小学校の講堂として建ち、同年同月に奥羽(東北)巡幸していた明治天皇の八戸行在所として利用された、歴史と由緒ある建物である。

また現在では県内最古の洋風建造物としても貴重な存在となっている。



この明治記念館が八戸小学校の講堂として“新築”されたのは元々、堀端町(現商工会議所のあたり)であり、1929年には内丸(現市役所のあたり)に移築されたのだという。



そして当時、その旧八戸小学校敷地内では、
妖しい事象がたびたび起こり、現在に伝承されている……


その頃、この旧八戸小学校の敷地内には大きなサイカチの木が生えていた。
サイカチ】(皁莢:Gleditsia japonica
マメ科の落葉高木で、主に山野に自生する他、河原にも生育するため別名:カワラフジノキとも呼ばれる。
幹や枝に棘があり、大きな莢の豆果を付ける。
このサイカチの木は、重罪を犯した女を生き埋めにして、その上に植えられたものだったという。
そのせいか? この木の根元には時おり、振り袖姿のうら若き女(推定17〜18歳位)が現れ、その美しき姿を見た者は、ことごとく熱病を患った。

しかも、このサイカチの木の枝には、
摩訶不思議なことに「赤い子供の手」(赤手児)が“生った”!
その「手」は夜中に周囲を通る人に石を投げつけたともされる。
そして、その枝を切ると、木の枝からが流れたというのだ!

また一説によると、このサイカチの下には「若宮神社」という祠が祀られていたらしい。
「若宮神社」とは、本宮の祭神の子や八幡神の若宮を祀っている場所で、多くは子供の神様として崇められる。

生き埋めにされた重罪の女と
その上に植えられたサイカチの木と
その木の下に立つ振り袖姿のうら若き美女と
その木に生る赤い児の手と、
子供を祀る「若宮」の祠…
ソレらを明確に結ぶ情報は現在、人々の記憶から薄れてミッシング・リンクと化しているけれど、一本のサイカチの木を巡る複数の伝承が、まったくの偶然や寓話だと云い切れはしないのではないだろうか?

現在では、
そのサイカチの木が何処に植わっていたのかさへ
…正確に知る者はいない。

しかし、
当時の八戸小学校敷地内の写真には、
実際に現生したサイカチの木がシッカリと写っているのだ……


サイカチの木があったのは紛れもない事実。
サイカチの木の豆莢形状や色味から、ある程度の“幻覚”も予想が付く。
サイカチの莢がナニカの拍子に弾けて“投石”のように豆が飛び散ることも無かったとは言えないだろう。
けれど、ソレ以外の妖しい事象は、どのように“現代的”解釈をすればいいのだろうか?



ちなみに、
九州〜四国の一部地域には「赤足」という妖怪がいて、
八戸の「赤手児」と対になる足部分だと説く(解く)妖怪研究家もいる。

「赤足」は山道などで、ふいに「足」を出したり絡めたりして、
歩行者を転ばそうとする妖怪なのだという。
また道具を使って足下を危うくするという言い伝えもある。
この一連の「歩行阻害行為」からすると、あるいは「てん転ばし」の類と思えなくもなく、もしもそうであるならば、八戸市内だけで『手』『足』が確認され、あわよくば全身をコンプリートする可能性も無きにしも非ず、かもしれなくもない。

※…当Blog『八戸妖怪巡り』は妖怪をネタに八戸散策するユルい企画であり、
  マジ恐い怪奇・心霊現象の類には極力近づかないように心がけています。
 
 

2010年2月24日水曜日

『まんが日本昔ばなし』【鯨石】

 
かの名番組『まんが日本昔ばなし』で
鮫浦太郎(八戸太郎)の【鯨石】が放送された時のデータを
You Tube で発見しました。

ツレっと貼り付けておきます。





八戸太郎・鮫浦太郎・鯨石・西宮神社

この記念すべき放送は、
西宮神社境内の立て札にも誇らしげに明記されていますが、
いまでは、その表記さえも色あせて、
風化した遠い過去の出来事となってしまっています。
 

2010年1月22日金曜日

非常のライセンス

  
八戸妖怪捜査官として
今後様々な状況に遭遇することが考えられるので、
このたび「カッパ捕獲許可証」を取得いたしました。

カッパ捕獲許可証

残念ながら遠野市カッパ淵限定の許可証です。
八戸のカッパ(メドツ)は許可対象ではありません。

あるいは八戸のカッパは自由捕獲可能なのかもしれません。
見つけ次第、勝手にひっ捕まえていいのです。


ちなみに、
この許可証には「カッパ捕獲7ヶ条」が記載されているのですが、
その中に
「捕まえるカッパは、真っ赤な顔と大きな口であること」
という一節があります。

この「真っ赤な顔と大きな口」は
前述の館越メドツ目撃談と一致するものであり、
東北のカッパ、あるいはカッパの一種族の明確な特徴だと考えて間違いないでしょう。

ひょっとしたら、
1627年に根城南部氏が遠野に移ったときに
八戸メドツの一部も一緒に遠野についていっちゃったのかもしれません。
もしそうだとしたら遠野のカッパと八戸のメドツは“同種”ということになります。

遠野民俗芸能しし踊り しし頭
(八戸市博物館:遠野市寄贈 遠野民俗芸能しし踊り しし頭)


遠野と八戸はなにかと縁が深いのです。

遠野カッパによって
八戸メドツの存在にますます真実味が増してきました。


そんなこんなで、
春(4/1)の解禁日になったら妖怪分析官と共に遠野市に赴き
カッパの1匹や2匹……

あれ?
カッパの単位は『匹』でいいのだろうか?
カッパ1匹、2匹、3匹……?
カッパ1頭、2頭、3頭……?
カッパ1尾、2尾、3尾……?
カッパ1体、2体、3体……?
カッパ1羽、2羽、3羽……?
カッパ1翅、2翅、3翅……?
カッパ1本、2本、3本……?
カッパ1人、2人、3人……?



(捕まえたカッパはキャッチ&リリースで元の場所に戻しましょう)

2009年11月7日土曜日

館越のメドツかトリかサルかキツネかナニカ…

 
館越のメドツ看板見物調査しているうちに
いつの間にか誘われ(いざなわれ)ていた鳥居。



森林の深いの中に対極的な深紅で聳え立つ
ニンゲンが作った神の印。

鳥居


「八戸」の内にいて注意深くあたりを見回すと、
ことのほか鳥居が多いことに気がつくだろう。

古来から漁村と農村と城下町が徐々に習合しつつ拡大し続けた街には
ソレらソレゾレの“神”を奉る場所もまたソレゾレに必要となり、
結果、街中に混在・同居していったのだろう。
ソレは概ね統合され都合の良い“万能神”を生み出してゆくのだが…

ま、とにかく鳥居は各所に多数点在しているのだ。


さすがにコレは鳥居あり過ぎ!(この写真は三八城神社です)


そもそも鳥居とは、
神社などの入り口を示す“門”として置かれ、
神の場所と俗世界(我々の世界)の境目の役割を果たしている。
人間界から神の領域へ「通り入る」門 ⇒「りい」から
とりい」である。(通入説)
…ダ、ダジャレ?! (O;)

また、
古事記によると、
天岩戸に隠れた天照大御神を出てこさせようと、
神々が「常世の長鳴き鳥」(ニワトリ)を鳴かせた折りに、
この鳥を止まらせるために用意した止まり木こそが、
鳥居の始まりとされている。
る処」⇒「鳥居」。
…ダ、ダイレクト?! (O;)

そー考えると蕪島神社の鳥居は、
おもいっきり鳥居であり、
ことさらに鳥居であり、
鳥居過ぎるくらいに鳥居なのである。




そんなこんなで、
車の往来激しい車道脇に、
ほとんど唐突にポッカリ開いた異界への入り口に足を踏み入れると…
ソコには薄暗い“山”へと続く急な階段が立ち上がっていた。
鳥居と同色で塗られた金属の手摺りが、
遙か「神の御座すであろう場所」を示すように伸びている。



さっきまで自分が居た街は
汗ばむくらいの陽気だったのに、
一歩、鳥居の内の森林に足を踏み入れただけで、
ヒンヤリするような妖気である。

たぶん気のせいだ。

あるいは樹林のフィトンチッド効果なのかも知れない。

まぁどっちにしても鳥居の内の森は、不気味なほど涼やかだったのだ。

階段の先の“目的地”までの中腹と思われる踊り場に
なにやら水場のような場所があった。



いったい誰が何をするところなのか?

ただの水場なのか? あるいは奉られているのか?

そこんところの端っこに、なにやら小さな置物が……

メ、メドツ!?

館越だけに、(メドツ看板も近いし)メドツでも奉っているというのか?



しかし、
置物はサルだった。

サルですよ猿。さる。さるさる。モンキー。エテ公。

結局、そーゆーことなのだ。
メドツ看板を見に来たついでに立ち寄った鳥居の中の水場に、
なんらかを象った置物があれば、
ソレは無意識の先入観からメドツに見えてしまうのである。

その「先入観」と、当時の情報過少による「無知」こそが大部分の妖怪の正体なのかもしれなくもない。

しかし、まてよ…
メドツって、川に棲むサルっぽいナニカではなかったっけか?

確かに冷静に考えてみると、
山から下りてきて川で水浴びしたビショ濡れの猿(二足歩行中)は、
体が子供みたいに小さく猿顔で体色は黒などのダーク系。
頭に皿が無い
」というメドツの目撃証言にあまりにも合致する。

やっぱり
サルですよ猿。さる。さるさる。モンキー。エテ公。

所詮はサル!

妖怪伝承に潜むミステリーなど、
所詮、現代の科学をまとい冷静な判断と沈着な物腰を身につけた捜査官にとって恐るるに足りぬ“常識”でしかないのだ。

そー思った瞬間、
さっきまでの「ヒンヤリ」感はスッキリ晴れ渡り、
足取りも軽く階段を駆け上っていた。

いやぁ、木陰が涼しくて気持ちが良ひなぁ。



そして目の前には“目的地”の最後の入り口と思われる真っ赤な鳥居が…



丁寧に一揖して鳥居を潜らせていただき、
祠に近づくと【館越稲荷社】とあった。



一般に「鳥居は赤いモノ」と思われがちだが、鳥居の赤は本来、稲荷神社を表す色だとされている。

そもそもこのは陰陽五行の「」を表す色らしい。

一方、農作物や保存食品を喰い荒らす憎っくきネズミや害虫を補食するキツネの生態は、農耕民族にとって大変アリガタいモノであり、また狐のキツネ色の体毛は農業の地盤である「」を連想させる色でもあった。

そこで、陰陽五行説くところの「火生土」(火が土を生む:いわゆる野焼き的なイメージ。また万物は火葬によって土に還る)にのっとり農耕に密接に関わるベストマッチングだと考えられ、稲荷神社にキツネが奉られるようになったのである。

そーなると、稲荷神社にキツネの好きそうな食べ物:油揚げ(当時としては最も動物性タンパク質っぽい食品。また油揚げ自体がキツネ色だった)などをお供えする人々が後を絶たなくなり、労せずとも美味しいモノが食べられるとあってキツネも益々集まって来て、境内はより強いキツネのテリトリーとなったのであろう。

そして堂々たるキツネがまた稲荷神社を更に神秘的に魅せた…という繰り返しの果てに日本中に拡散していったのではないか?

要するに稲荷神社とは元々農耕の神を奉る処であり、
農村の益獣のキツネは本人の知らないところで敬われたのである。
そして、
いつのまにか恵比寿神や弁財天同様、「富福」をもたらす万能神とその使いに作り替えられ、現代に至っている。

そんなこんなで稲荷神社は国内に数万社ほども分布する最大派閥神社となって、「鳥居=赤」のイメージを決定づけたワケなのだ。

ここ館越稲荷もそんな数万社の中のひとつである。

そして、八戸が誇る伝説のキツネ『藤五郎』が住処にしていた稲荷である。(あるいは、いまだに住んでいるのかもしれない)

藤五郎は他の野狐連中からも一目置かれるほど
化かしに長けたキツネだったらしい。

ちなみに、
特別な力をもったキツネは、
野良狐の野狐と、何者かに仕える善狐に分けられる。
人を化かしたり誑かしたりして悪さをはたらくのは主に野狐で、
益獣かつ善良な狐として人間に敬われるのが善狐である。
そして、善狐の中でも位が高く有名なのが稲荷神社の御先稲荷なのだ。

イタズラ藤五郎キツネは、その所業からみて野狐の部類だと思われるが、
稲荷神社に暮らしていたとすると善狐を目指していたのかもしれない。

良き者になろうと心がけても本能が悪さをしてしまう。

なんとニンゲン的なキツネであろうか?


ひょっとしたら館越のメドツとは
藤五郎キツネが作り出した幻影だったのではないか?

もしそうだったとしたら、
ソレは野狐のイタズラだったのか? 
ソレとも善狐として川の危険を知らしめるための警告を発していたのか?
 

2009年9月26日土曜日

館越のメドツ看板

 
きけんだ! よるな近づくな メドツが出るぞ 看板

コレは、地域団体が妖怪の存在と危険性を認めた上で注意を促した例として、とても興味深く、けっこー有名な看板である。
しかも昭和51年(1976)と妖怪の存在認知例としては比較的新しい部類であろう。

妖怪の名は「メドツ」。
メドツ(メドチ)とは、青森県各所の川に棲息する猿っぽいナニカで、
河童かソレに類する妖怪だと考えられている。

メドツ(メドチ)という言葉は、水神、蛇神、龍蛇神などの「水霊」を表す「」(みずち)が訛った語だとする説もあるが、伝承のメドチ達がことごとく悪さをして懲らしめられていることから、水の神である「蛟」よりも悪戯な「河童」に近い存在であり、河童と混同されているようだ。

おそらく、ワカラナイ事や手に負えないモノは全て神とか精霊とかで“まとめて”しまっていた昔の人々にとって、水棲の未確認生物は全部「水の霊」と考え、ひっくるめて「ミズチ」と呼び、訛ってメドチから更に訛ってメドツになったものだと思われる。

メドツの特徴は、
体が子供みたいに小さく猿顔で体色は黒などのダーク系。
頭に皿が無いことと、行動がシャレにならないような悪行三昧(人の命を奪うなど)であることなどから、いわゆるホノボノした民話に出てくるヤンチャな河童とは異なる存在だとも云われている。
八戸市内の櫛引八幡宮に伝わる有名な「メドツ伝説」には、メドツは『人を襲わないと餓死してしまう』とあることからも、やっぱり河童より凶暴な妖怪だと推測される。

青森県をはじめ日本各所には「水虎」という川の妖怪が悪さをした伝承が多く残っていて、ソレらによると河童が沢山の仕事(悪さ)をすると水虎に昇格し、48匹の河童を束ねる河童の大親分になるというのである。
元々「水虎」は中国の妖怪で日本には棲息していなかったのだけれど、「話」だけが日本に伝わり河童と混同されたか、或いはなんらかのルートで日本に入り込み棲み着いてしまった外来種妖怪なのか…? よくは解っていないのだが…。妖怪ですから。

もしもソノ伝承が“事実”であるならば、河童も悪行によって出世魚のようにグレードアップすることになり、

いたずらカッパ >> 人を襲うメドツ >> 悪の親玉:水虎

…という生物的変態も想像に難くない。

ひょっとしたら、ミズチ〔メドチ河童水虎〕 なのかもしれないのだ。

まぁソノ辺はテキトーなくくりだったんだろうけど。妖怪ですから。


で、この『メドツ看板』は、
意外にも交通量の多い道路脇に普通に立っていて、
田向バス邸から少しだけ歩いた所にあった。



地域住民からの聞き込み調査によると、
以前は、この看板は無かったのだという。

昔、この場所は沢と言うか小川と言うか、まぁそんな処だったらしく、
その頃には、子供達がよく遊んでいて、コレといった危険などは無かったのだそうだ。
ところが…
コンクリートの用水路が出来てからは突然危険な場所になってしまった。
それで、子供達に危険を促す目的で、昔話のメドツが“悪者”として担ぎ出されたと云うワケらしい。



確かに、こんな雑草に覆われた水路は危険きわまりない。

きっとメドツだってこんな所に棲みたいなんて思わないだろうけど…。

そう。
こんな自動車の往来の五月蠅い、
コンクリートに塗り固められた水路にメドツは棲まないのである。
棲むんだったら、もっと静かで水のキレイな場所だ。

冷静に考えたら、ここにメドツが居るワケがない。
…というか、メドツなんて理に叶わないモノは元々存在しないのかもしれない。

ここに水路の危険性を知らしめるためにメドツ伝説を利用した看板があるだけだ。

今では子供だってメドツを信じないし、
「メドツ」という言葉さえ知らない八戸市民も多いだろう。

ニンゲンは「科学」の名のもとに
日々、数々の伝説を暴き伝承を葬り神々を無力化している。
そして妖怪だって科学の犠牲者なのだ。

妖怪はオモシロかったり無意味なヤツばかりではなく、
中には恐ろしいのやらニンゲンに悪さをするヤツやらもいる。
しかしきっと、
メドツをはじめとする妖怪に危害を加えられたニンゲンの数より、
ニンゲンの科学に基づく“常識”によって抹殺された妖怪の方がよっぽど多いはずだ。

妖怪の実在を証明する術は無い。
反面、妖怪が存在しない確実な証拠だって、まだ無い。
だからこそ妖怪は我々に夢想や可笑しみやモラルや戒めを与えてくれたのではないか?
どっちにしたって確認できないからこそ“妖怪”だったのである。
その“確認”の範囲をジリジリと狭め続けるのが科学であり、
日々狭まる常識の隙間に細々と棲息する存在こそが妖怪なのだ。

じゃぁ、そーであるならばですヨ、
この看板がある限り、
ここにメドツが居ると信じたっていいんじゃないのか?

そのほうが断然愉しい。

メドツなんて今時ナンセンスかもしれないけれど、
絶対いないなんて証拠だって無いのだから。


きけんだ! よるな近づくな メドツが出るぞ」

いまどき子供だって信じない意味のない注意喚起看板は、
細々とメドツの存在を繋ぎ止める重要な看板であり、
地域住民の「粋」を伝える看板でもあるのだ。

だから、ここにメドツはいます。
館越メドツ看板
館越のメドツ(想像図)今回の報告書を仕上げる直前!
我々捜査班の元に、
メドツ目撃談が寄せられた!
情報提供者は現在アラ50の方で、
その方が、そのまたお婆ちゃんから聞いた話によると、
館越のメドツは、
背丈は小学1年生ぐらいで、
真っ赤な体で真っ黒のおかっぱ頭、
頭に皿は無かったのだそうです。
少なくとも、そぉ遠くない大昔に、
ホントにメドツはいました!
「見た」って言ってんだから、
間違いないでしょう。



この看板から、また少しだけ歩いた同じ道路沿いに
鬱蒼とした山中にいざなうような赤い鳥居があった。



どうやら館越稲荷社への入り口らしい。


館越稲荷といえば…
あの藤五郎キツネが住んでいた処ではないか!

あれ? なんで? メドツは?
既にキツネに化かされているのか?!
 

2009年9月20日日曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜天使と悪魔〜

 
…そんなこんなで
一般的な「八戸太郎物語」は“完結”した。…かのように思われているけれど…
実は八戸太郎の御話は「八戸の負の歴史」としてもう少しだけ続く。

その後、なんとあろうことか!
当時のエライ人達は沿岸漁民達の反対を押し切り鮫村恵比寿浜への捕鯨会社誘致を決めてしまったのである。
鮫村の漁民を鰯の大群に導き繁盛と安定をもたらした、あのヱビス様(鯨)を、こともあろうに、その恵比寿浜で捕鯨〜解体するというのだ!

なんと罰当たりな方向転換であろうか?

まさに「近代化が神を殺す」を、まんま体現したような出来事である。

そして実際に東洋捕鯨会社が操業を開始したことにより、
恵比寿浜は文字通り「血の海」と化した。

八戸で育った者ならば歴史の授業や誰かの御話で誰もが知っているであろう「海が鯨の血で真っ赤に染まった」という、あの“史実”である。

鯨は、肉は勿論、油を採るためにも、まことに割の良い重宝する“獲物”だったという。
前述の「漂着ヱビス」1頭で近隣村落が潤うというのだから、活きのいい鯨を片っ端から捕まえてバラしていったら、ソレこそ莫大な利益を産むのは必至である。
そんなワケで、規程の操業期間を過ぎた後も東洋捕鯨会社は捕鯨を止めようとはしなかった…。



恵比寿浜の海を一望できる西宮神社にて、
良き友人だったニンゲン達が仲間のクジラを狩る残虐な光景を見せつけられた八戸太郎は、いったいどんな気持ちになっただろうか?
仲間達の血で真っ赤に染まる恵比寿浜には、もう以前の、漁民達との温かな交流の記憶は微塵も残ってはいなかったであろう。
ソレどころか、恩を仇で返すようなニンゲンの行為に、怒りを覚えないハズはない。

親密だった分だけ、裏切られたショックは大きく恨みは深かっただろう。

八戸太郎が妖怪変化するには十分過ぎる銃爪である。

ソレはまるでジブリ映画『もののけ姫』の劇中で、
自然を守る主(獣神)がニンゲンの兇弾によってタタリガミに変異してしまう状況と同様の経緯だったのだ。

荒ぶる海獣の祟りを裏付けるように、
あんなに大漁を誇り全国的にも有数の鰯産地として知られた八戸の海から、鰯が消えていった。
ソレどころか他の魚介類も姿を消してゆき、漁業が成り立たなくなってしまった。
いきおい漁民達のストレスも、どんどん高まっていったワケだ。
そして遂に、明治44年(1911)11月1日には、歴史的大事件「東洋捕鯨鮫事業所焼討事件」にまで発展し、多くの損害を出したのである。

鯨によってもたらされた繁栄の分だけ、
鯨の血によって奪われた海産資源や失った“信頼”は膨大だった。




…その後、八戸太郎の恩恵を忘れ去った村人達は八戸太郎の怒りにふれましたとさ。どっとはらい

これからは、
この一連の“史実”までを八戸太郎伝承として後世に語り継ぐべきなのではないだろうか?




八戸太郎は、
たんなる鯨だったのか?
それとも海神様の使いだったのか?
あるいはホンモノの神になれたのか?
ニンゲンへの恨みによって妖怪になってしまったのか?
被害者だったのか加害者だったのか?
裏切りと復讐は、どっちが罪深いのか?
海を守るために傍若無人なニンゲンを祟る行為は、
はたして神の所業なのか悪魔の仕業なのか?
いったい海は誰のものなのか?

その答えは、
我々ニンゲンひとりひとりソレゾレの、
“自然”に対する思いや行為の中にこそアルのではナイか?

なにはともあれ、
今日の恵比寿浜は至極平穏に見える。




今回の1次調査の〆として、
八戸太郎さんと恵比寿様に敬意を表したくて、
ヱビスビールの空き缶に恵比寿浜の海水を汲んで、鯨石にかけて差し上げた。

「どーだい太郎さん? 近頃の恵比寿浜の水も、まんざら悪かぁないだろ?」

恵比寿浜の潮水に濡れた鯨石は、
心なしか円熟した鯨のように黒々艶やかに輝いて見えた。



—八戸太郎第1次調査補鯨おわり—

2009年9月13日日曜日

鮫の鯨の【八戸太郎】〜神になりたかった鯨〜

  
八戸太郎という物語を解き明かすには、
西宮神社の石碑に記された箇条書きの鯨石物語では、
いささか不十分なようだ。



八戸太郎についての伝承の詳細はこうだ…

その昔、鮫浦の海は連日の大荒れが続き漁をすることが出来ませんでした。
このままでは、村人の生活がダメになってしまいます。
そんなある日、村の若い漁師が果敢にも大荒れの海に漁に出ました。
若者の乗った船はあっと言う間に波に飲み込まれてしまいました。
若者は海の神を呪いながら最後を覚悟しました。
そこに、大きな鯨が現れ若者を助けて、海岸へ連れ帰ってくれました。
村人たちは、その鯨に感謝して、親しみを込めて鮫浦太郎(八戸太郎)と呼びました。

それから毎年その鯨が鮫浦の海に現れると、イワシの大漁が続くようになり、鮫浦の漁師は、八戸太郎を神の使いとして崇めるようになりました。
八戸太郎のおかげで大層、鮫浦の村は潤ったそうです。

実は、この鯨は、海から毎年伊勢参りをしていて、その行為は仲間の鯨も認めるところで、神への仲間入りも認められていたようなのです。
そして、数十年の時が流れ、その年の夏も鮫浦の人々は、八戸太郎を心待ちにしておりました。
しかし、待てど暮らせど八戸太郎は現れません。

とろろが、ある朝、村人は大騒ぎです。
鮫浦の浜(現西ノ宮神社前)に、鯨が打ち上げられ息絶えているではありませんか!
鯨は八戸太郎でした。
体には何本ものモリが打ち込まれています。
そのうちの一本に、紀州 熊野浦と刻印がありました。
その年も、伊勢参りに行った八戸太郎は、不覚にも紀州の熊野浦の漁師にモリを打たれたに違いありません。
精一杯頑張って、鮫浦まで逃げてきたのでしょう。
鮫浦の人々は大いに悲しみました。
そして、八戸太郎は石になり、今でも西宮神社の前から海を見つめています。
現在、その石は、鯨石と言われています。


更に、興味深い“物語”が
八戸出身の高名な翻訳家:佐藤亮一氏の著書『鯨会社焼き打ち事件 みちのく漁民一揆の記録 明治四十四年八戸の<浜が泣いた日>』で語られている…(下記、原文まま)
鮫村の恵比寿浜東側の少し離れた海上に、日の出島という岩礁があり、このあたりに大昔から一頭の大鯨が棲息していた。
沿岸のイワシが不漁ときは、この鯨の主「日の出のオナイジ」様は、はるばる海洋の沖まで回遊してイワシの大群を見つけては鮫浦まで追い込み、おかげで漁師達は大漁をしたという話である。

この鯨の主「オナイジ」は、毎年、はるばる、みちのくの南部藩から、和歌山県熊野の権現まで「位(くらい)」をもらいに出向き、その印として、1回ごとに何やらの小石を一つもらって(呑み込んで)帰ってきたものだという。

ある年のこと、伊勢の某という鯨取りの親方が不思議な夢を見た。

夢に一頭の大鯨が現れて言うには、
「俺は、南部のオナイジである。毎年一回、熊野に位をもらいに上ってくるが、今年は三十三年目だ。三十三回位をもらえばもう大願成就、俺も魚神になることになる。だから今年のあがりだけは見逃してくれ、代わりに俺は進んでお前たちに取られてやるから」と言ったという。

翌日その親方は、漁師達を率いていつものとおり沖に出たが、珍しく大きな一頭の大鯨を見つけて捕獲した。

あとで大鯨を捕った漁師達は、この大鯨の肉を食べたが、残らず急病で死んでしまったという。

以上は明治7年7月ごろ、鮫村二子石の久次郎屋の老父が伊勢参りをしたときに、泊まった旅館の番頭が久次郎屋の老父が南部藩の人間だと聞いて話してくれたそうだ。
(以上原文抜粋引用—respect!—


コレらふたつの物語は、
子細こそ異なるがほぼ同じ伝承に基づいていると思われる。

そして、コレらの伝承に語られる鯨は尽く「大鯨」なのである。

そんなこんななワケで、
今までの経緯も含め考察するに、八戸太郎は大鯨(マッコウクジラ)だったとするのが妥当な解釈であろう。



ソレでは「マッコウクジラ」と「鯨石」の大きさのギャップはどー説明付けるのか?

その答えも伊勢の旅館の番頭さんの話の中にある。
「オナイジは、毎年、和歌山県熊野の権現まで位をもらいに出向き、その印として1回ごとに何やらの小石をひとつ呑み込んで帰ってきたものだ」というくだりである。

神になるために32年間毎年伊勢参りをして、神から授かった小石を飲み込み、ソレが体内で御神石となってゆく。
そして、あとひとつ…というところで、ニンゲンの凶銛に討たれ、息絶えたのだ。

無念!!

その直後、pre神殺しの罰当たりなニンゲン達は、おそらく“呪いみたいなモノ”で残らず死に至らしめられたのであろう。

…というコトは、
八戸太郎は熊野で捕獲され、食べられ、恵比寿浜には帰って来ていないことになるのだが…?

ソコで「オナイジ」という妙な名前が鯨と石を繋ぐ重要なキーになるのである。

おそらく「オナイジ」とは「御内陣」が元となって付いた名前だったのではないか?

内陣】ないじん—ぢん
神社や寺院の内部で、神体または本尊を安置する最も奥の部分。内殿。
「大辞林 第二版」より


「八戸太郎」=「オナイジ」=「御内陣」だったとするならば、
八戸太郎という巨大なマッコウクジラは神体・本尊の“入れ物”に過ぎず、
実は32年間せっせと貯め込んだ「小石の固まり」こそが御神石であり、「神」の部分だったのではないか?
33個貯めた時に、小石塊は鯨体もろとも「神」になる…予定…だったのかもしれない。

神になったコトが無いので神のシステムはワカラナイけれど、
雰囲気なんかそーゆー感じぃ的なぁ?

したがって、
入れ物(鯨の肉体)を失いながらも恵比寿浜まで戻った御神石−1=32個分の石塊は完全な「神」じゃないから西宮神社の中に収められず、かといって無下に捨て置くワケにもいかず、鯨石として境内に残され、ソレなりに奉られたのではないだろうか?

鯨石は恵比寿浜に西宮神社が建つ前からソコにあったのだという。
恵比寿を奉る西宮神社は、鯨石のある場所を狙って建てられたのである。
しかも鯨石を撤去または移動することもなく、
かといって神社の中に神として納めることもなく…。




神様認定評議会に「神」と認められなかったにしても、
「鮫浦太郎」と呼び親んできた鮫浦の漁民達は
神と同様に手厚く奉り愛してきたのだ。



そんな鮫浦の漁民達と八戸太郎の蜜月の日々が
その後、歴史的な血の惨劇へと豹変してゆく…。



次回はいよいよ第一次八戸太郎調査補鯨最終回。
妖怪としての八戸太郎を考察する。

心して待て!!